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シベリア抑留


先日 吉田正の「異国の丘」をきいた。シベリア抑留でのうた。吉田正は、シベリア抑留から帰還した。弟子には 吉永小百合らがいる。

今日 現在86歳の陸軍通信兵に憲兵されたおじいさまからお話をきいた。お元気でいらっしゃる。敗戦国の権利はないに等しいのは我慢ならないと言い放った。8月15日 ポツダム宣言受諾後も 戦争は終わっていなかった。米軍の占領下にあったので 「GHQ司令部・・・」という看板に書き換えられており 日本ではなかった。1952年(昭和27年)4月28日が本当の意味での終戦の日 サンフランシスコ講和条約締結により 主権を取り戻した。

シベリア抑留について、私の歴史観では、60万人が抑留され、10万人以上が亡くなったと思う。お墓がなく 慰霊ができない状態である。京都の舞鶴に 抑留者慰霊碑があるのみ。外国では ウズベキスタン共和国のタシケントに慰霊碑がある。シベリア抑留では ソ連全土におよび 過酷な労働をしいられ亡くなったとされる。また 乱暴されたりして 人権侵害をされてきたのである。ソ連との間には北方領土の問題がある。

歴史をみると、「日露修交条約」により1855年 南千島(択捉・国後)は 日本の領土となった。ウルップ島 以北は 北千島と呼ばれていてロシアの領土であった。樺太は 両国の領土となっていた。その後、1875年(明治5年)5月7日 「樺太・千島交換条約」によって、北千島が日本の領土となった。戦後 1952年、サンフランシスコ講和条約で 日本は、樺太 千島を放棄した。しかし、もともと 北方4島 国後 択捉 (南千島)歯舞 色丹島(北海道 属島)は、日本の固有の領土である。ソ連は 1945年8月11日 宣戦布告し 南千島に侵攻した。そして、これらの島に住んでいた日本人を追い出した。さらに 歯舞 色丹島にも侵攻し 軍事基地をつくるなど 現在、ソ連の実効支配が続いており、日本が抗議している。

サンフランシスコ講和条約にソ連は調印しなかった。当時 国際連合に加盟することに常任理事国であるソ連は拒否していた。国交回復したのは 日ソ共同宣言 1956年10月19日で 鳩山一郎とブルガーニン首相の間で交わされた。この後、日本が国際連合に加盟することになる。

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