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「われらは涙しひざまずき」十字架へのわが愛「マタイ受難曲」


「マタイ受難曲」BWV244  最終曲 第68曲「われら涙しひざまずき」

新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にした受難曲。新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書に基づくイエス・キリストの受難を描いた。受難曲はキリスト教の聖週間における典礼と密接に結びつき、中世以来の長い伝統があり、17世紀~18世紀には、ルター派圏内で合唱や管弦楽を伴うオラトリオ(受難曲)が作曲された。

ミサ曲などは、宗教の儀式で奏される 典礼文などに則り厳正な音楽としては限定的であり 音楽の普及のためには 門戸をひらき プロテスタントに道が開かれた。典礼文の一部を採用したり、ドイツ語や英語などの宗教曲もでてきて、あるいは聖書からのテクストなどさまざまな場面を採用していった。

ルターの宗教改革がおこなわれたのは、今から400年前。それまでは、カトリックが厳正で 守れないものは刑を免れなかった。

たとえば、コペルニクスの地動説については、ルターは厳しく非難した。コペルニクスは正式に70歳の晩年に主張し、その後没した。後にガリレオが 発明された「望遠鏡」で惑星を観測し発見する。地動説を主張したが、宗教裁判にかけられ 終身刑となった。カトリックにおける破門が宣告、すべての役職を剥奪され、『天文対話』の禁書目録入りとなり、地動説放棄を命じられる。1633年、有罪とされ、フィレンツェ郊外に幽閉された。それでも ガリレオは、研究をやめず 望遠鏡をみつづけた。1638年に『新科学対話』を、プロテスタント国オランダのライデンで発刊する。1642年、ガリレイは幽閉先で78年で亡くなった。身分回復は得られず、家族の墓地に葬られず、墓碑もない状態が続く。ローマ教皇ヨハネス=パウルス2世(位1920-2005)は 裁判の誤りを認め(1983)ガリレイの有罪判決を撤回した。2回目の裁判から359年ぶりの1992年に、ガリレイは破門を解かれたのである。

聖書という絶対的なテクストを守り伝える。この曲は「人生のテーマ」それ以上の価値を持つ。現代版「十字架へのわが愛」はこの曲、X JAPAN の「CRUCIFY MY LOVE」。人間という悪魔が引き裂く現実。人は 嫉妬深い存在で 他人を欺き 地獄に突き落とす 愚かな存在。その罪を清浄することが 生きていくための条件。人は十字架を背負って生きている・・・

バッハ(1685~1750)はルターの宗教改革と密接に関連していた。ドイツ語のカンタータ300曲に及ぶ。また、カンタータなど管弦楽の曲をオルガン用に転用し「オルガン小曲集」など親しみやすいものにしている。頂点にたつ作品が「受難曲」バッハは、4つの受難曲を作曲している。マタイ ヨハネ ルカ マルコである。このうち「マタイ」と「ヨハネ」が完全に遺っている。死後、長く忘れられていたが、1829年3月21日、メンデルスゾーンによってマタイ受難曲が、歴史的な復活蘇演がなされ、バッハの再評価につながった。

第1曲から 第68曲まで 第Ⅰ部(第1~35曲)と第Ⅱ部(第36~78曲)約3時間を要する 壮大なパッション。私が思うところを書いてみたい。

Thomas Quasthoff トーマス・クヴァストホフ  障害を乗り越えキャリアを積み重ね 歌手として活躍をする。また、指揮でも高い評価を得ている。

第1曲「来たれ娘たちよ、ともに嘆け。」 Kommt, ihr Töchter, helft mir klagen

ホ短調のバスから開始される。管弦楽の響き、合唱の叫びにもとれる声が印象的。
ただごとならぬ予感で、終わりをも期待させる。

Kommt, ihr Töchter, helft mir klagen, 来たれ娘たちよ、ともに嘆け。
sehet-Wen?-den Bräutigam, 見よ-誰を?-花婿を、
seht ihn-Wie?-als wie ein Lamm! 彼を見よ-どのような?-子羊のような!
Sehet,-Was?-seht die Geduld, 見よ-何を?-彼の忍耐を、
seht-Wohin?-auf unsre Schuld; 見よ-どこを?-私たちの罪を
sehet ihn aus Lieb und Huld 愛と慈しみゆえにみずから
Holz zum Kreuze selber tragen! 木の十字架を背負われるあのお姿を見よ!

Choral ‐ Soprano in ripieno コラール
O Lamm Gottes, uaschuldig おお、罪なき神の子羊よ
am Stamm des Kreuzes geschlachtet, 犠牲として、十字架に架けられた御方よ、

allzeit erfunden geduldig, たとえ侮辱されようとも、
wiewohl du warest verachtet. いつでも耐え忍ばれた。
All Sünd hast du getragen, すぺての罪をあなたは背負ってくださった。
sonst müßten wir verzagen. さもなければ私たちの望みは絶えていただろう。
Erbarm dich unser, o Jesu! 私たちを憐れんでください、おおイエスよ!

第21曲 受難のコラール「私を知って下さい、私の守り手よ」Erkenne mich, mein Huter,
合唱隊は、この曲が何度となく出てくるが、その場面毎に、忠実に再現するのだ。

Erkenne mich, mein Hüter, 私を認めてください、私の守り手よ。
mein Hirte,nimm mich an! 私の羊飼いよ、私を受け入れてください!
Von dir,Quell aller Güter, すべての宝の泉であるあなたから
ist mir viel Guts getan. 私のために多くのよいことが行われました。
Dein Mund hat mich gelabet あなたの口はミルクと甘い食べ物で
mit Milch und süßer Kost, 私を元気づけてくださいました。
dein Geist hat mich begabet あなたの聖霊は多くの天国の喜びを
mit mancher Himmelslust. もたらしてくださいました。

第47曲 アリア「憐れみたまえ,わが神よ」Erbarme dich, mein Gott,
深い悲しみが表現されている。美しいソロ・ヴァイオリンと哀しみのアルトの歌声。

キリストが逮捕された後、ペテロは大祭司の家の庭に連れてこられた。人々は彼を見て「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペテロは打ち消して「違う」と言う。大祭司の僕の一人で、ペテロに耳を切り落とされた人マルコの身内の者(下女)が言う。「園であの男と一緒にいるのを、私に見られたではないか。」ペテロは再び否定する。三度打ち消すとすぐ鶏が鳴く。ペテロはキリストの予言を思い出し、それを自分が強く否定した事も思い出し、後悔して泣き崩れた。

Erbarme dich, mein Gott, 憐れんでください、私の神よ!
un meiner Zähren willen ! 私の涙ゆえに、
Schaue hier. 私をご覧ください。
Herz und Auge weint vor dir bitterlich. 心も目もあなたの御前に激しく泣いています。

第58曲 アリア「愛ゆえに 我が救い主は死に給う」Aus Liebe will mein Heiland sterben

キリストが捕らえられ、広場に引き出されたとき、ローマ帝国の属州総督ピラトが、「このものは、どんな罪を犯したのというのか?」との問いかけに、一女性が「どんな罪もなく、ただ、私たちのために死ぬのです」と気高く答えるアリア。

Aus Liebe will mein Heiland sterben. 愛ゆえに私の救い主は死のうとしておられます。
von einer Sünde weiß er nichts. 罪ひとつ知らない御方なのに。
daß das ewige Verderben 永遠の破滅と
und die Strafe des Gerichts 裁きの刑罰が
nicht auf meiner Seele bliebe. 私の魂に覆いかぶさらないように、と。

第68曲 終曲 合唱「われら涙流してひざまずき」

Wir setzen uns mit Tränen nieder われらは涙してひざまつき
und rufen dir im Grabe zu, そして、墓の中のあなたに呼びかけます。
Ruhe sanfte, sanfte ruh! 安らかにお休みください、やすらかに。
Ruht, ihr ausgesognen Glieder! お休みください、疲れ果てた御体よ!
Ruhe sanfte, ruhet wohl! 安らかにお休みください、やすらかに。
Euer Grab und Leichenstein あなたの墓と墓石は、
soll dem ängstlichen Gewissen 悩める良心にとっては
ein bequemes Ruhekissen ここちよい憩いの枕、
und der Seelen Ruhstatt sein. 魂の憩いの場となるべきもの。
Höchst vergnügt schlimmern da die Augen ein. こよなく満ち足りて、その眼は眠りにつくでしょう。

私は、クリスチャンではないが、この曲を聴いた後は、拍手は一切しない。なぜなら、キリストが十字架に磔にされ 受難したことを重く受け止めるべきであるから。

感謝すること・・・

キリスト教的には、私たちは、罪深き存在で完璧ではない。良心を裏切り、嫉妬し、嘘をつき、他人を地獄につきおとす。欲望を捨てきれない限り、人間は神に仕える事のみ生きるすべである。神様には、その罪を打ち明け懺悔し、清浄につとめなければならない。そして、「聖書」をテクストとし、これを実践することが「生活」である。

仏教的には、人間には煩悩がある。自らが、悟りをひらき、自分の生き方について「慈悲」をもち、人には「仏の心」で接すること。また、己を律することが求められ、そのためには真言をとなえ行を実践する。仏の道を達観するには、「経典」を勉めるために「出家し」僧侶となり実践する生活を送る。
「帰依仏 帰依法 帰依僧」