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石巻 釣石神社 大川小学校「滅災を誓う」


石巻を視察した。釣石神社 大川小学校 3月10日は 寒く 風が強く 雪が横なぐりに降ってきて 吹雪のようなありさまだった。自然の厳しさ。釣石神社付近 河北地域。旧北上川は なだらかで 湖を思うくらいだ。約60kmにわたる運河は 石巻市内に入り 仙台湾にそそぐ。その上流は 一関から 雪解け水なども運んでいて 流量が豊富。自然の恵み。この対岸 景色が一変する。(2015年3月訪問)

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旧北上川

釣石神社 今回の津波10mでも 落ちなかった石(左上)。前回の津波の時も大丈夫だったことから この近辺に避難してきた人が多かったが 山の中腹まで津波が遡った。

釣石神社1

コンクリートの白い階段が修復されている。こんなところまで 津波が来たのか、信じられない。吹雪で雪が残っている。

釣石神社2

そのあと 対岸にある 大川小学校を視察。74名が犠牲・不明になった。バスが一台 それ以外は車が数台あったのみ。地面がぬかるんでいる。地盤沈下で すぐ浸水してしまう。大川小学校の建物と 慰霊塔が建っていた。(慰霊塔は撮影禁止)ここは この現状を保存していくという住民の苦渋の決断があった。

近づいてきた 大川小学校。地面にひざまついてしまった。「なぜ こんなことになってしまったのか」津波の恐ろしさに動けなくなった。私が今までみた中でどこよりも ひどかった。まるで戦争の爆撃で学校の機能がすべて失われたようだった。すぐにこの場所を離れることができなかった。無念の魂を肌で感じていたから。ただただ合掌するしかなかった。

まず率直に思ったのが、三角州のようなところに学校がある事に疑問はなかったか。それから、この校舎には屋上がなかった。普通、学校・公共施設には避難誘導路の表示や避難場所として屋上が設置されることが多い。例えば3Fの屋上への階段やその屋上スペースがなかったのである。かなり疑問。よってこの学校での避難場所は、少し高台にある森林の高台ということになる。津波注意報の値として、1mでも流される危険があるが、当時は5m以上の津波10mともいう危険な高さの津波が来るかもしれない、それもすぐに。そもそも屋上でもたすからない可能性もあったので、屋上への避難は正しいと言えなかったかもしれない。しかし、2Fの高さが7m、3Fが11m(柱の高さを3.5mと換算すると)。
招集してとどまるより、高台に一目散に避難するのができるかか教訓となる。

10年以上経ったので、当時の状況をここに残しておきたいと思って。
2011年3月11日14時46分 震度7を伴う東日本大震災が起きた。度重なる余震に混乱した。マグニチュード9.0は1000年に一度起きるかの大震災。
学校側のとった行動を検証する。津波が来るのは予想できた。どれくらいの。かなり大きいと。
しかし、屋上に避難ができないこの学校では、まず校庭に全生徒を招集し、そこで待機。少し離れた森を抜けた高台への避難が適切だと判断されたのは、かなり時間が経っていた。
校長は、公用で出張。当時は、卒業式、終業式、修了式の時期。職員も忙しかった。校長の指示を速やかに仰ぐことができなかった。残された職員も「どうすれば」
避難をはじめたのが遅かった。はじめようとした時に大津波に襲われた。言葉がありません。ここは、1000年、いや、後世に慰霊を続け絶対に忘れてはならないところ。
無念にも亡くなった方が多すぎる。

他には甚大な被害のあった荒浜海岸など合掌せずにはいられない。
でも、これはこんな大きな地震が起きたらどこででもありうるという事を示しているのであり、教訓にされなければならない。

大川小学校1

濡れている地面には 未だにデニムのジャンパーが泥の中から一部姿を出していた。4年を経た今でも、陶磁器の破片など がれきが積もっている。

「防災訓練などというが、そんな甘いもんじゃない!命を守る行動のこと。」
「減災」でなく「滅災」を真剣に取り組んでほしい。

大川小学校2