39年「JAL123機墜落事故」御巣鷹の尾根


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1985.8.12.185628 「JAL123機墜落事故」39年
死者520名、生存者4名、航空機史上最大の犠牲者を出した。事故原因の真実をただしく理解すること。亡くなった方は、戻ってこない。残されたものは、突然の悲劇に人生が変わってしまった。

2024年1月2日「羽田空港地上衝突事故」が起きた。空の安全を片時も忘れず、祈っていた人々に衝撃を与えた。海上保安庁機で5名の犠牲者が出てしまった。旅客機の方はクルーに新人が半数いたとされる中、18分で全乗客・乗員379名を避難させることができた。日頃の訓練が功を奏したといえる。しかし、まずJAL516便が10分遅れていたのはなぜか。着陸するC滑走路上になぜ海上保安庁機がいたのか。みずなぎ1号はADS-Bが非搭載だった。海上保安庁機は、昨日おきた「能登半島地震」の支援物資を運ぶために小松空港から羽田に到着、新潟空港基地に搬送する予定だった。管制官の判断は正しかったのか。JAL機も滑走路に別の機体が確認できれば「待て」で事故を防げる。羽田空港は、最近は離着陸数を増やしていて、2分に1回の離着陸の過密スケジュールが交信のみで事故は起きてなかったが、管制官への過剰な負担が増えていて、ヒヤリハットがあったらしい。

39年経った「JAL123機墜落事故」は原因について、ボーイング社の修理ミスと事故報告書では記されている。「圧力隔壁」の不備といわれる。それが突然の主翼折れ、オイル漏れまで引きおこす重大な事態を引き起こすのか。油圧がないと、操縦不能。まず、機体の不良に気づいたのが離陸後12分の18時24分35秒で、それまでエンジン系などのトラブルはなかった。伊豆、富士山、横田基地に緊急着陸しようとした事。しかし、操縦不能で恐怖の30分間。少しづつ機長は機首をあげさげし懸命に。最終的には力を落とし一気に墜落した。御巣鷹の尾根のU字溝に機体の一部が接触しバウンドし、尾根に衝突した。10Gの衝撃と火災。戦場のような光景。今のようなネット社会でない。しかも、通信手段がない場所。上空から機体の発見はできたが、登山道がない。現地に入るのに沢沿いの急坂を150人体制で登った。現場に着いたのが翌日の午前9時だった。生存者の落合さんは、意識が何度か朦朧としながらも、子どもの声や息をする音が多数聞こえていたと語った。上野村は怒涛の如く、村が戦場となった。8月14日の成人式は中止。急斜面にバラバラで黒焦げになっている機体の一部。生存者の救出できるヘリが運べるところまで一人ずつ10人体制でかついだ。村役場は自衛隊、警察、消防署員、マスコミの大勢が入った事により、ボランティアでおにぎりを毎日つくった。1ヶ月以上、非日常が続いた。村長の配慮で、10月に村の体育祭が行われ、日常を取り戻したという。慰霊施設の建設、慰霊祭の催行。遺品の管理、慰霊登山の整備など上野村の尽力がなかったら。

この度、私は、慰霊で追悼施設にうかがい、慰霊登山をした。一般がどう思われるかもしれないが、この事故を風化させてはならない一心で。群馬県上野村へは、国道254号線(長野県佐久市~群馬県富岡市)から下仁田町県道45号線で国道462号線と交わり、道の駅方面へ進めると「慰霊の園」(日航ジャンボ機墜落事故の慰霊塔と納骨堂)がある。距離は20km、車で30分位。資料館では、事故の詳細パネルと遺品展示と映像室がある。映像室でVTRをみた。言葉を失う壮絶な出来事だった。上野村のたゆまない尽力に敬服するのである。続いて「御巣鷹の尾根」へ向かう。慰霊の園から18km、約1時間の道のり。山深いところにある。また、トンネルも多い。そのおかげで、以前よりアクセスがよくなった。ご苦労さまです。登山道入口の手前に観音像があり、そこに大型の観光バスが停まっていた。これが旧の登山口。そこから1.3km、徒歩で30分の場所が新しい登山口。標高1359mで涼しい。登山用の杖が置いてあった。整備された登山道で水飲み場もあり、途中まで沢の音をききながら。しかし、あの8月12日、灼熱の熱く黒焦げになった機体を想像すると。襟を正して。沢沿いの道が終わると、つづら折りの急坂。少し上に小屋が見えた。黒沢完一さんが声をかけてくれた。上まで10分位かな。途中からお墓が。座席番号と発見場所を示している。墓は、供花されてるものもあれば、それぞれ。39年経ってしまったから。登りきると見晴台(標高1539m)。そこに「昇魂の碑」が建立されている。合掌。さらに、墜落地点を示す碑。それから黒御影石の慰霊碑は520名が刻印されている。また「茜観音」が建立されている。隣には、遺品が保管されている場所がある。また、思い出の品を納めてある「霊安堂」。遺族の方の思いが込められていて涙する。「ち」9E 大島九(坂本九)さんの墓に手を合わせることができた。哀しかったのが、現在、命を織る会の代表をされている美谷島邦子さんの息子の健ちゃん(当時9歳)の墓。あの時がとまったまま。野球のボールや新幹線のおもちゃ、木に赤いリース。いっしょに生きていこうとするひたむきさに泣けてくる。どれだけの愛を感じたか。美谷島さんの社会貢献に敬服。この事故がなければ、栄養士としてつとめられていたのが、人生をこの事故のために慈愛のエネルギーを注いでいる。支援してあげてほしい。そして「御巣鷹の尾根」を管理、整備の上野村の黒沢さんに感謝。まずは、御巣鷹の尾根を歩いてほしいと心から願うばかりである。

下仁田町から県道を通って南牧村を過ぎ、上野村に入る。ここまで30分くらい。片側1車線でアクセスがよい。

道の駅 川沿いの散策道がある

慰霊の園。この標示板をみると涙が出てきました。当時の皇太子も訪問されました。

1000名が参列できるような広場。

身の引き締まる思い。合掌。奥に納骨堂があり120体が安置されている。

資料館。中は、撮影禁止。事故についてのパネルがある。ここでは、上野村の事故対応の当時の様子が映像で流れます。

御巣鷹の尾根へ向かう。いくつかのトンネルがあり、道幅が狭いところもあり、運転には注意が必要。

登山道入口 貸出用の杖がありました。標高1359m 昇魂ノ碑は1539m 標高差は180m

水飲み場があります。



事故当時のNTSB(米国運輸安全委員会)の委員長 ジム バーネット氏の言葉
「御巣鷹の尾根登山で、私は霊感を受けました。途中、私達はいつも沢沿いに登りましたが、私には、なにか水の流れが、私達に語りかけ、登山を励ましてくれているような気がしました。そして私の願いは、あの御巣鷹の尾根で、又、他の、7つの大陸の全ての墜落現場で、亡くなられた方々への想いが、こんなことを二度と起こさせまいとする私達の努力に、いつまでも力を与えてくださることです。」

沢沿いの道が終わり、急な登りがはじまった。上に小屋が見えている。さらにその上が「昇魂之碑」。

遺族のメッセージボード

たくさんの風車。

御巣鷹の尾根 「スゲノ沢」。520の墓が。

登りきったところに見晴台(標高1539m)

昇魂之碑 合掌

鐘楼

短冊 ここには JALだけでなく、ANAの職員も来られる。警察学校生が清掃登山にみえている。

「茜観音」。遺族でつくる「8.12連絡会」が文集「茜雲」を出版している。

墜落地点を示す碑 心がいたみます。

慰霊碑 黒御影石に520名が刻まれている。

バツ岩 救助捜索の起点とした印。この上に機首が衝突し、機長、副機長、機関士の3名のご遺体の一部が発見された。

沈黙の木 黒焦げになった樹木

坂本九さん(大島九さん)のお墓。

霊安堂

遺族の「思い出の品」の一つ。

U字溝(標高1610m)標示板

U字溝は、39年経ってもまだ残っている。

プロフィール

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nishikunn
☆PCPAL代表取締役 日本アコーディオン協会理事 FMはしもとパーソナリティー  ピアノテクニシャン  なにわシャンソンコンクール審査員 市ボランティアサークル連絡協議会副会長 TOPページへnishikunnのページ