吉野神宮 梅はまだ


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吉野神宮 御祭神 後醍醐天皇 南北朝時代の南朝(吉野朝)が正統 初代天皇 神門は、京都御所を向いている。

桜の名所、金剛山や葛城山を遠望できる。大げさかもしれないが、後醍醐天皇がいなければ、現在の日本もなかった・・・。

後醍醐天皇 1288年11月26日〈正応元年11月2日〉 – 1339年9月19日〈延元4年/暦応2年8月16日〉
日本の第96代天皇で南北朝時代(1339年~1392年)の南朝初代天皇(在位:1318年3月29日〈文保2年2月26日〉 – 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉
明治時代、天皇が南北朝正閏論で南朝を正統とした。

複雑なので整理すると、後醍醐天皇は、後宇多天皇(ごうだてんのう)の2番目の皇子として誕生。兄の後二条天皇(ごにじょうてんのう)に継がせたものの急逝し、後醍醐天皇が即位。後宇多上皇は、後二条天皇の実子の邦良親王(くによししんのう)を就かせるつもりだった。後宇多上皇の院政がはじまったものの、院政は3年で停止された。倒幕を企てる(正中の変、元弘の変)の政変で正慶元年(1332)、隠岐に流された。しかし、楠木正成や後醍醐天皇の子、護良親王らによる討幕運動が続くと、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、討幕を呼びかける。情勢が不安定な鎌倉幕府は、足利尊氏、新田義貞らにより正慶2年(1333)滅ぼされた。後醍醐天皇は京に戻り、幕府・摂関を廃した親政「建武の新政」を開始。しかし足利尊氏の離反に遭い、京で幽閉される。建武2年(1336)、尊氏は持明院統の光明天皇を立て「北朝」がはじめられる。後醍醐天皇は京を脱け、尊氏に渡した三種の神器は贋物であるとして、吉野に朝廷を開く。すなわち、56年にわたる南北朝の時代がはじまる。このとき、南朝「吉野朝廷」(大覚寺統)と北朝「京都朝廷」(持明院統)の天皇が交互に即位した。

南朝の後村上天皇は、父の後醍醐天皇が延元4年(1339)に崩御した後、吉野・吉水院で供養を行っていた。明治時代、1873年(明治6年)に吉水院は後醍醐天皇を祭神とする「後醍醐天皇社」に改められ、さらに2年後、吉水神社に改称。

1889年(明治22年)6月22日、後醍醐天皇を祀る官幣中社「吉野宮」の創建が明治天皇の命で。
1892年(明治25年)に社殿が竣工、吉水神社から後醍醐天皇像を移し遷座祭が斎行。
1901年(明治34年)8月8日に官幣大社に昇格。
1918年(大正7年)、吉野神宮に改称。
1928年(昭和3年)、現・拝殿が竣工。
1929年(昭和4年)、神門が竣工。
1930年(昭和5年)、大鳥居が竣工。

摂社 南朝の忠臣を祀る三柱

御影神社 – 祭神:日野資朝、日野俊基。
船岡神社 – 祭神:児島範長、児島高徳、桜山茲俊。
滝桜神社 – 祭神:土居通益、得能通綱。

プロフィール

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nishikunn
☆PCPAL代表取締役 日本アコーディオン協会理事 FMはしもとパーソナリティー  ピアノテクニシャン  なにわシャンソンコンクール審査員 市ボランティアサークル連絡協議会副会長 TOPページへnishikunnのページ