マエストロ「小澤征爾」(1935.9.1 – 2024.2.6)
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マエストロ「小澤征爾」1935.9.1 – 2024.2.6
世界のオザワが永遠の眠りに。巨匠の逝去に涙が止まらない。中国、奉天生まれ、帰国後、立川市に住む。1945年、長兄の小澤克己(のち彫刻家になる)からアコーディオンとピアノの手ほどきを受ける。ピアノ科を目指すが、ラグビー部の練習で右手人差し指を骨折。指揮者へ志す。斎藤秀雄氏(1902.5.23 – 1974.9.18)にアドバイスを聞く。1955年、開校した桐朋女子高等学校音楽科の一期生になり斎藤秀雄に学ぶ。門下生として秋山和慶がいる。斎藤の教えは大変厳しかったが、辞める人が少なく素晴らしい音楽家に成長されている。
単身でフランス、ヨーロッパ、アメリカに渡り、ブザンソン指揮者コンクール、カラヤン指揮者コンクールで優勝。巨匠カラヤン、バーンスタインに師事した。その頃「小澤は耳が悪い」と揶揄され、日本のオーケストラNHK交響楽団にボイコットされ中止にされた問題(1962年、27歳)。当時のコンマスは海野義雄(1936.2.14 – )だった。彼も新進気鋭のヴァイオリニストだったが。斎藤秀雄の強烈な個性(いわゆる「桐朋」カラー)に距離を置いた。仲裁には、吉田秀和が入っている。彼は、桐朋学園の前進である「子供のための音楽教室」室長を(1948-59)つとめた。直後、小澤は海外へ出て、努力を続けた。ボストン交響楽団の指揮者として長きにわたり活躍した(1973-2002)。録音は、マーラー交響曲全集など、ドイツ系以外も得意とした。
80年代は、師匠の斎藤秀雄の遺志を汲み取り、サイトウ・キネン・オーケストラを編成し、現在に至る。桐朋門下を中心とする団員がここに集結した。90年代、32年ぶりの邂逅となったN響との共演。ロストロポーヴィチがお膳立てをしてくれたのだ。N響定演ではなく、日本オーケストラ連盟主催の阪神・淡路大震災のチャリティコンサート「病気やケガで活躍できないオーケストラ団員のためにチャリティコンサート」の条件付きでありNHK側は譲っていない。小澤も当時の団員がいなくなるのを待った結果、かなりの年月が経過した。1998年、長野オリンピックの開会式での演奏指揮は小澤だった。2002年、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートに日本人として初めて指揮を振る。世界のオザワとなったのだ。2022年、JAXAとサイトウ・キネン・オーケストラの共同企画、宇宙へ音楽を届ける。JAXAの若田光一さんにベートーヴェンを届けた。(リンクにYOTUBEの動画)最後まで諦めなかった。https://www.seiji-ozawa-oneearthmission.com/
ついでながら、世田谷区のあるお蕎麦屋さんでは、小澤さんが時々店に来られていたという。
https://youtu.be/rLt9tyCH4t4?si=UZ4tJKfdEStHGTar&t=4857
1995年 小澤征爾 マーラー 交響曲第2番「復活」 浦上天主堂
プロフィール
- ☆PCPAL代表取締役 日本アコーディオン協会理事 FMはしもとパーソナリティー ピアノテクニシャン なにわシャンソンコンクール審査員 市ボランティアサークル連絡協議会副会長 TOPページへnishikunnのページ
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