日本史の重要な地 三法師 織田秀信


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ここ向副(むかぞい)には、三法師のお墓がある。善福寺のお寺のあと。
織田秀信(三法師) 織田信長の嫡男で 織田信秀の子である。26歳 この地で没した。

織田信長が 明智光秀の謀反により 本能寺の変で自害する事件の時 秀信は3歳であった。元服もできない これが運命。軍師 官兵衛の口添えにより 羽柴秀吉が 光秀を討ち 天下統一を成した。
12歳の時 美濃国 岐阜城主となる。19歳の時 関ヶ原の戦いで 敗戦し 高野山に送られる。しかし 高野山は秀信をいれず この地域にとどまる。織田信長が1300人もの高野聖殺害したこと。高野さんも黙ってはいない。高野さんに入れるはずもない。橋本の地 向副にとどまり 継室 生地真澄との子には 織田恒直がいる。

慶長10年(1605年)5月8日、遂に高野山から追放されてしまう。追放の理由には僧を斬るなど自身の乱行が原因であるとの説もあるが、秀信は仏教を迫害しておらず、美濃崇福寺を織田家の菩提寺ということで諸役免除としたり、法華寺に寄進を行うなど美濃の寺院を保護しているため、高野山追放は完全なとばっちりといえる。

その後、向副村善福寺に入り地元有力者西山家の娘・梅との間に織田秀朝を儲けた。そして、近江源氏の庶流(坂上田村麻呂後裔とも)地元の豪族生地真澄の娘町野を継室に迎えて、さらに織田恒直を儲けた。その後恒直は男子二人を儲け、次男が織田(おりた)直信を名乗り向副に土着した。名字を名乗っていることから判断しておそらく郷士となったものと思われる。子孫は直系が昭和初期まで同地で存続し、一族は現在も健在である。このほか美濃に閑居した一子があり、5代後の子孫に坪井信道があるという。以後世に出ることなく、向副で生涯を閉じた。享年26。同地の観音寺に位牌が祀られている。大正期、円徳寺住職が墓所に秀信の事跡を綴った石碑を建立している。

そういえば、織田(おりた)姓や萱野(かやの)姓などがある。
織田(おりた)というのは、この地帯が 綿の産地で 織物の産業が発達していて 特にパイル織物は全国でも有数の産地である。また、小田(おだ)という地名が高野口町にのこっている。

 

プロフィール

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nishikunn
☆PCPAL代表取締役 日本アコーディオン協会理事 FMはしもとパーソナリティー  ピアノテクニシャン  なにわシャンソンコンクール審査員 市ボランティアサークル連絡協議会副会長 TOPページへnishikunnのページ