鎌倉寿福寺「北条政子」


鎌倉寿福寺「北条政子」
頼朝が亡くなった1周忌にあたる1200年(正治2年)北条政子の創建。住職は栄西。栄西は、日本に茶を広めた事でも知られる。北条政子の墓は、奥の奥にあった。
鎌倉は三方を山に囲まれた要塞であったため、元々源氏が住処としていてここに幕府を開いた。「鶴岡八幡宮」(1081年創建)の若宮大路は、その象徴とされる。
栄西の教えを汲み取り禅寺が多い。そのため、簡素ながら落ち着いた雰囲気。東の京都「鎌倉」と称えられている。寿福寺は、幕府が開かれたであろう地である。
苔むした石畳が美しい。いろんな話を聞くが、それでも、ここを守ってこられたのだから、それなりのお方だという事を。
境内の脇道をいくと「北条政子の墓」と標示板があるが、落石のおそれあり、裏から回ってくださいと、道順が。
たどると五輪塔があったが誰の墓か。階段を上ったところに広々と墓地があり「やぐら」があった。沖縄の石窟にある墓を思い出した。「土に帰る」「死んでも、生きていると呼ばわる人になる。」
その奥のやぐらに政子の墓が。「尼将軍」と言われた女傑。彼女を「悪い」とたしなめるのは簡単だが。明治維新後、南朝を顕彰する流れは理解できるのだが。鎌倉幕府が悪いのではない。
朝廷が保身のために武士をこき使い、だらしない政をしていたから鎌倉幕府ができたのである。
政子は才覚を現し、鎌倉幕府の危機を収束し尽力した。「承久の乱」では、後鳥羽上皇を退けた。
白百合のきれいな花が添えらえていた。壮絶な闘いを生き抜き、静寂の地に安らかに眠っている。
『吾妻鏡』に「皆心を一にして奉るべし、是れ最期の詞なり。故右大将軍(頼朝)朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩、既に山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝の志浅からんや。・・・
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