史上初「治天の君」西園寺寧子【広義門院】


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史上初の「治天の君」西園寺寧子【広義門院】 正応5年(1292年) – 正平12年閏7月22日(1357年9月6日)は、鎌倉時代から南北朝時代の女性。
後伏見上皇の女御で、光厳天皇及び光明天皇の実母。

「梵王山」相国寺卒塔大光明寺は、第93代後伏見天皇の菩提を弔うため創建した。「妙音弁財天」が本尊。
白雲神社【現在、京都御所内の西に位置する】は、旧西園寺家の鎮守する社。西園寺家は、琵琶の宗家であり、音楽の神として祀られている。
立命館大学の創立の礎を築く縁となった。

西園寺寧子(さいおんじ やすこ)皇室外で、女性が「治天の君」となったのは、日本史上初。院政を行ったのが62歳だった。
当時、朝廷は持明院統と大覚寺統の両統が交互に政務を担当する両統迭立の状態。北朝の3人の上皇(光厳上皇、光明上皇、崇光上皇)と廃太子(直仁親王)は京都にいた。初代将軍・足利尊氏と、その弟の副将軍と目されていた足利直義との対立で「観応の擾乱」がおこり、彼らは南朝に連れ去られた。

義詮は考えに考えた。そして編み出された苦肉の策が、弥仁王の祖母に当たる西園寺寧子を上皇に見立てて「践祚の儀」を行う荒技だった。当時の貴族たちも十分に承知していた。第26代継体天皇(けいたいてんのう)(450?~531年、在位501~531年)は、天皇家の血が絶えた時、遠縁を頼って越前から迎えられ即位し天皇になった先例のひとつ。

後伏見上皇の女御であり、光厳天皇及び光明天皇の実母である「広義門院」。自分の可愛い息子たちを置き去りにして南朝に誘拐された張本人から「孫を天皇にするから践祚の儀を手伝ってくれ」と。寧子は、幕府の失態に激怒りし、義詮の提案を断る。しかし天皇が不在ではみなが困る。北朝を存続させるため「治天の君」をしぶしぶ義詮に従った。他にいなかったのだから。

践祚の儀は、皇室の象徴としての三種の神器もなく執り行われた。「弥仁王」は祖母・寧子の手で即位し、後光厳天皇となった。
寧子は史上初の上皇【王朝の最高権力者】になったのだ。

 

プロフィール

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☆PCPAL代表取締役 日本アコーディオン協会理事 FMはしもとパーソナリティー  ピアノテクニシャン  なにわシャンソンコンクール審査員 市ボランティアサークル連絡協議会副会長 TOPページへnishikunnのページ