ポーランドとショパンⅠ


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ポーランドは ポズナニまでベルリンから100kmと近い

旧都市クラクフ  首都ワルシャワ 平たい国
戦争のたび ドイツやロシアに占領されてきた。
母国語、ポーランド語を大切にする。キリル文字でなく ラテン文字を使った ロシアに抵抗。ギリシア正教でなく カトリック派だ。

ショパンのことは 何回かに分けて書こうと思う。それだけ重要なことなので。

ショパンは 革命家とされ 国に戻れなかったとある。
もし ポーランドにずっといたなら投獄された可能性がある。
しかしポトツカとの恋愛はどうなっていただろうか。ショパンの気持ちを理解してくれる本当の恋人であったのだろう。ショパンの病床の絵画には ポトツカ夫人が歌を歌っている。
ポーランドにいるとき 革命エチュードもできたし バラード1番もその時の作品だ。

19歳でコンチェルトを書いてるのだから。フンメルのピアノ協奏曲をどうまねてもこうはならない。
練習曲は このコンチェルトの表現のために書かれた。チェルニーとは意味が違う。
今日でも ピアニストの登竜門になっている。指がねじれた人は弾いてはならないと言った人もいる。

ポーランドにいたらあのような作品をかけたのであろうか。
フランスに行き 社交のサロンで ジョルジュサンドを会ってからのショパンの作品の激しさ
バラード4番 スケルツォ・・・ 誰もかけないだろう素晴らしい曲。愛国心から フランスで作曲し
マズルカ ワルツ ポーランドのリズムを使った。一方 こんな話がある。
当時のシャンソンをショパンらが演奏したのではないか という説。
年代は、1830-49なので この説はある程度適っていると思う。

ジェラゾヴァ・ヴォラ
ショパン生誕地 7歳で ポロネーズを作曲し 神童といわれた。しっかりリズムはポーランド メロディーとベースが対応しているのはショパンが天才であることを示している。この緑の家には 戦争のひとかけらも見えない。おそらくショパンが生まれピアノを弾いていただろう。

ここで写真を撮った。私にとって煌きを感じた瞬間

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プロフィール

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nishikunn
☆PCPAL代表取締役 日本アコーディオン協会理事 FMはしもとパーソナリティー  ピアノテクニシャン  なにわシャンソンコンクール審査員 市ボランティアサークル連絡協議会副会長 TOPページへnishikunnのページ

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