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ウィーンはオーストリアの首都。ウィーンには何度も行っていて、案内ができるほど。一、二年に一度はヨーロッパへの旅行が楽しみである。永世中立国。日本とは時差が8時間。成田から11時間前後で直行便も出ている。ウィーン市内 リンクは東京と同じ23区 気候は温暖。日本でいうと ちょっぴり寒い時があるので。仙台くらいかな。最近は温暖化で 雪があまり降らないとか。緑が多く空気がきれい。クラシック音楽のストリートがあって しかも本格派 どこででもクラシック音楽を楽しめる。毎日のように 学友協会 劇場 教会などコンサートが行われていて その料金は 2000~4000円程度。
ウィーン 市庁舎 オペラ劇場 ウィーンフィル シェーンブルグ宮殿 ・・・下は シュテファン大聖堂 ハプスブルグ家 神聖ローマ帝国(802-1806)がおかれていたところである。帝都は フランクフルト ウィーン プラハ とあり 長き1000年にわたっておさめられていた。フランス皇帝ナポレオンに滅ぼされるまでつづいた。
ハイドン ベートーヴェン シューベルト ショパン シューマン ブラームス シュトラウス ・・・がここに住んでいた。
ベートーヴェンの小径 ハイリゲンシュタット ウィーン北部 ベートーヴェンは間借り人で生涯を通した。30回以上は引っ越しをしている。しかも 市内北部や南部に多い。「ベートーベンハウス」が何か所かある。
ベートーヴェンは朝 早く起き 散歩を楽しむ。そこで得た楽想 モチーフを元に作業していたという。たしかにここを歩くと 「田園」の交響曲がここで構想されたのか その気になってしまう。
「ハイリゲンシュタットの遺書」は 耳が聴こえなくなった ピアノソナタ 「悲愴」作曲の時期に書かれたものだ。遺書というと 死後のことや財産のこと 手続き上のものが一般的だが ここでは 自分は「耳が聴こえなくなった」「それでも私は神の子か」「新しい音の世界を神とともに作る」・・・などと 訣別する内容である。その後も作曲を続け 最終的には 補聴器や筆記を使ってになる。中には フーガで 楽譜を転回した内容に見える部分もあり 意図的に記譜(創造的に作曲)したところもある。耳が聴こえないで作曲していたのであろう。「神は私の聴覚を失わせた」「独身でいること 神の啓示だ」などといっていた。
プロフィール
- ☆PCPAL代表取締役 日本アコーディオン協会理事 FMはしもとパーソナリティー ピアノテクニシャン なにわシャンソンコンクール審査員 市ボランティアサークル連絡協議会副会長 TOPページへnishikunnのページ
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