2014.8.「殉国七士廟」戦後69年


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戦後69年目 「戦後」とは何が問われているのか。

昭和40年代の私にとって 生後 戦後20年を経ていて 祖父母は戦争を経験した生き証人だった。父母は、生後は戦中だけに記憶はあまり残っていなかったが生活ぶりについては教わった。御祖父は、聞けば教えてくれた。「これから話することは他人に話してよいことと悪いことがある。誰にでも同じように話ししてはいけないよ。」と教わった。人 それぞれ立場は違うのだから。そうやって はじめて口を開いたことが印象的であった。やはり戦争体験の話をする機会をうかがっているようだった。母方の御祖父の兄弟はビルマに赴き戦死し、お墓はあるが遺骨も遺品もない。墓碑には ☆がついている。参る人も少なくなった。
つい 数年前 墓地が新たに必要ということで 戦死者を一か所に集め 墓碑が建立された。そこには 名前が刻印されている。

戦後の事件 4つとりあげてみたい。
「玉音放送」ポツダム宣言受諾 1945年8月15日
極東軍事裁判 1946年5月3日~11月12日 起訴状の提出 4月29日(天皇誕生日) 判決執行 12月23日(天皇誕生日)
日本国憲法 1946年11月3日制定 47年5月3日施行
サンフランシスコ講和条約 1951年9月8日調印 1952年4月28日発効

極東軍事裁判 A級 200人 B級 C級戦犯として10000人を逮捕し 全体で1000人もの死刑になった。B級・C級は、 各地の連合国軍と犯罪が行われた各国において審理された。
A項「平和に対する罪」は、ドイツ-ニュルンベルクの国際軍事裁判所と日本-東京の極東国際軍事裁判所で審理。「戦争を起こした」罪ということで大きな意味を持っていた。
B項「通例の戦争犯罪」戦時国際法における交戦法規違反行為 。
C項「人道に対する罪」「国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、捕虜の虐待、追放その他の非人道的行為」と定義。
なお B・C級戦犯といわれた「法務死亡者」は靖国神社に1959年(昭和34年)合祀された。

1975年を最後に、昭和天皇は公式靖国神社参拝をしていない。A級戦犯14名を合祀するかというやりとりが1966年(昭和41年)からあり、1978年(昭和53年)には合祀したとされる。「尊い犠牲の上に私たちが生きていることを感謝するとともに 哀悼の気持ちを捧げる」というのが日本人としての(信徒としての)考えである。それが戦争を賛美するわけでなく ただ手を合わせたいという気持ち。これに対し、東亜3国のみが反対している。これが靖国問題である。

戦争で国のために犠牲になったものは 遺族に配慮し、遺骨を渡し、英霊を祀っている。遺骨がない場合は捜索している。一方、墓が存在することに反対という考え方がある。国策で墓を作らないというのもあるそうだ。崇める施設になることを恐れる。ドイツの独裁者ヒットラーのお墓はない。しかし、ドイツと日本は事情が違うと思う。

 

「殉國七士廟」
極東軍事裁判にて七名が戦争責任者として極刑を言い渡され、1948年(昭和23年)12月23日、巣鴨で処刑された。(法務死)巣鴨拘置所跡にはサンシャイン60が建っている。東池袋中央公園の片隅に石碑が建立(戦争裁判の遺跡)
横浜の久保山火葬場で火葬に付し、東京湾に散骨される予定であったが、お骨を火葬場から争奪し、骨壺には三文字氏の叔父の名前にし、興禅寺に安置する。
1949年(昭和24年)5月3日、遺骨を熱海伊豆山興亜観音堂に安置。幾星霜を重ねた後、
1960年(昭和35年)三ヶ根山に「殉國七士廟」を建立し遺骨を安置。
同年8月16日 墓前祭を執り行う。

愛知県西尾市東幡豆町の三ヶ根山
東條英機(首相・陸軍大将) 土肥原賢二(陸軍大将) 板垣征四郎(陸軍大将) 木村兵太郎(陸軍大将)松井石根(陸軍大将)武藤章(陸軍中将)広田弘毅(首相)

殉国七士廟 ページ http://ki43.on.coocan.jp/

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☆PCPAL代表取締役 日本アコーディオン協会理事 FMはしもとパーソナリティー  ピアノテクニシャン  なにわシャンソンコンクール審査員 市ボランティアサークル連絡協議会副会長 TOPページへnishikunnのページ

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