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「ああモンテンルパの夜は更けて」渡辺はま子 天竜峡


「ああモンテンルパの夜は更けて」渡辺はま子 1952年(昭和27年)天竜峡

作詞:代田銀太郎(1914年 – 2006年6月7日) 作曲:伊藤正康(1923年 – 2009年6月11日) 歌:渡辺はま子(1910年10月27日 – 1999年12月31日)

代田銀太郎は、元フィリピン憲兵隊少尉。伊藤正康は、元大日本帝国陸軍将校。
太平洋戦争の終戦の年、1945年(昭和20年)2月~3月、マニラ市街戦で 連合国軍と日本軍が戦った戦闘地フィリピンのマニラは、悲惨な状態にあった。
市民10万人の犠牲者が出たとされている。この責任をとって陸軍大将山下奉文は、マニラ軍事裁判で裁かれ、絞首刑となった。
また、軍事裁判で死刑が執行されたもの、死刑判決を受けた者がおり、多くの捕虜が収容所でいた。

1952年(昭和27年)6月、鎌倉市の渡辺はま子宅に、一通の封書が届けられた。そこには楽譜と短い手紙が入っていた。
フィリピン マニラ市 ニュービリビット刑務所で戦争犯罪者として収容されていた日本人111名の望郷の念が込められた「ああモンテンルパの夜は更けて」。
渡辺はま子は 緊急にこの曲をレコーディングした。そして、国交のないマニラへの慰問が実現する。

代田銀太郎と伊藤正康は開演前の渡辺はま子と対面し礼を述べた。慰問のステージは、「蘇州夜曲」などのヒット曲が歌われ、
終盤『あゝモンテンルパの夜は更けて』が披露された。108人の収容者は、皆感極まって涙し、大合唱となった。

死刑囚の哀しみの歌。この曲のヒットは、キリノ大統領の耳にも入った。
関係者のはたらきにより、1953年(昭和28年)キリノ大統領の特赦により、祖国へ帰ることができた。
実は、大統領の妻と娘が日米軍の戦闘の犠牲となり死んだのだった。それを水に流し、特赦を与えたキリノ大統領に深謝すべき出来事であった。

天竜峡第一公園にある歌碑。代田銀太郎は長野県飯田市出身。

あゝモンテンルパの夜は更けて 渡辺 はま子


ああモンテンルパの夜は更けて


ああモンテンルパの夜は更けて 渡辺はま子

マニラ市街戦 1945年 昭和20年2月3日から3月3日まで 日本軍と連合国軍がマニラ市街で戦い 多くの犠牲者がでた。米軍 1000名 フィリピン市民 10万人 日本軍 12000名 とある。真実は 不明とされながらも マニラにおいて 日本軍が フィリピン市民を犠牲にしたのは 確かなことであった。
特に キリノ大統領の 妻や子 4人が殺害されたことも。

この責任をとって 山下大将が 絞首刑となった。その他 捉えられた 日本軍の100名以上の死刑囚は
フィリピン市民の怒りがおさまらず 処刑されるのも時間の問題であった。

死刑囚の 代田銀太郎が作詞 伊藤正康が作曲した 「ああモンテンルパの夜は更けて」のメッセージが 届けられた。刑務所で収容されていた日本人111名の望郷の念を込めた曲であった。渡辺はま子は これを録音し マニラに 慰問演奏に行くこととなる。国交が無いフィリピン政府に対し、戦犯慰問の渡航を半年の間、嘆願し続けた。そして 実現 モンテンルパの刑務所を訪れる。

この曲を聞いた100人近くの収容者は、死刑が執行された戦犯たちの事を想い、またある者は望郷の想いを胸に、皆感極まって涙し、最後には全員で大合唱となった。作詞者の代田も、作曲者の伊東も涙を流していた
その後、この歌のヒットや渡辺はま子をはじめ関係者の努力が、当時のフィリピン当局を動かし、1953年(昭和28年)3月7日 キリノ大統領は 特赦をだし 死刑囚は 日本に帰還することができた。ただただ 感謝しかない。キリノ大統領 渡辺はま子氏に感謝するとともに 「ああモンテンルパの夜は更けて」を思い出す。


キリノ大統領が許すことと同じように中国の蒋介石も行ったことを忘れてはならない。許されたのである。
今の日本があるのは 様々な条件がある。ドイツ ベトナム 朝鮮半島 は分割統治された。
日本が分割統治されなかったのは朝鮮戦争が関係しているとみられる。他の理由も考えられるが定かでない。日本が降伏し 連合国軍 アメリカを主とした 4カ国による分割統治の提案にたいし 異をとなえたのが蒋介石であった。これは廃案となった。アメリカは 朝鮮半島への前線基地とするために なるべく早く日本を独立させる案をすすめた。サンフランシスコ講和条約にはロシアは反対し調印しなかった。

奇跡的に日本は 天皇が有史以来在位する国となった。恒久平和を実践することを率先してやらなければ 平和ボケとなり 客観的な知識だけが一人歩きし 歴史が薄れるのだ。

天竜峡第一公園にある モンテンルパの夜は更けての「歌碑」
作詞 代田 銀太郎 作曲 伊藤 正康  歌唱 渡辺 はま子/宇都美 清

作詞の代田の郷里は飯田。フィリピンのモンテンルパ市にあったニュービリビット刑務所に勾留された。他にも 111名が戦争犯罪者として収監されていた。代田は、望郷の念をこめて「モンテンルパの夜は更けて」を書いた。フィリピンと日本との友好の徴を示しています。