二上山(ふたかみさん にじょうざん)金剛生駒紀泉国定公園。ふたつの突き出た部分があり大きくそびえる山。健康を祈願し、山に登ってみた。登山口は いろいろある。葛城二上神社口から1.6km
二上山は時に風景を変える。夕日は美しい。また 西斜面に雪がうっすらかかるのもよい。
春はつつじで赤くみえる。また 秋は紅葉で黄色く染まる。そんな山。
山に登るときは 落ち葉をふみしめながら気持ちをしずめて歩む。山は何も音をたてはしない。が 鳥が自由に啼いている。雑念がなく 自分の意識のなかで 何かを考える自分と 山を登るために集中する自分がいる・・・
ゆっくりと登るので 30分で5合目 1時間の道程だ。雄岳山頂近くに大津皇子の墓がある。
[mappress mapid=”58″]663年九州の那大津で誕生。『日本書紀』によれば天武天皇の第3子(『懐風藻』では長子)。『懐風藻』による、(体格や容姿が逞しく、寛大。幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った。その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した。『日本書紀』にも讃辞が述べられており。父:天武天皇 母:大田皇女(父:天智天皇) 同母姉:大来皇女 妃:山辺皇女 子:粟津王
母の大田皇女は、天智天皇の皇女で鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の姉にあたり、順当にいけば皇后になりえたが、大津が4歳頃の時に死去し、姉・大来皇女も斎女とされたため、大津には後ろ盾が乏しかった。そのため、異母兄の草壁皇子が681年に皇太子となった。
683年12月に朝廷の政治に参加。しかし、当時まだ年少だった長皇子・舎人親王などを除けば、血統的に草壁と互角だった大津の政治参加は、一応は明確になっていた草壁への皇位継承が半ば白紙化した事を意味した。686年9月に天武天皇が崩御すると、同年10月2日に親友の川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸にて自害した。享年24。