Author: nishikunn

☆PCPAL代表取締役 日本アコーディオン協会理事 FMはしもとパーソナリティー  ピアノテクニシャン  なにわシャンソンコンクール審査員 市ボランティアサークル連絡協議会副会長 TOPページへnishikunnのページ

リラ・クラシック 2025.10.18(土)7:00 「ショパン」vol.153


2025.10.18(土)7:00「リラ・クラシック」は、クラシック音楽でリラックスする60分。第3週・第5週 パーソナリティ マコルネがお届けします。【ネットラジオ(リアルタイム配信)で視聴可】https://www.jcbasimul.com/radio/1302/

【曲予定】ショパン/ポロネーズ第6番「英雄」作品53 ワルツ第6番「子犬のワルツ」作品64-1 練習曲第3番ホ長調「別れの曲」作品10-3 練習曲第7番嬰ハ短調「恋の二重唱」作品25-7 ピアノ協奏曲第2番ヘ短調作品21

【コラム】10月17日は、ショパンの命日。5年に一度のショパン国際ピアノコンクールが開催されています。それも19回目、100年の歴史を持つ。国際コンクールが開催できるのは、喜ばしい事です。3大コンクールは、エリザベート王妃コンクール、ショパンコンクール、チャイコフスキーコンクールで、名の知れたヴァン・クライバーンコンクールや、かつてのロン・ティボーコンクールも知名度が高かった。国際音楽コンクール世界連盟に加盟しているのは20数あり、日本は浜松国際ピアノコンクールなど6つがある。
ショパンコンクールは、世界でもっとも愛されているコンクールの一つだと思う。ショパンの全作品は200数あり、ワルツやノクターンをはじめ、親しまれている。

日本人3人を含む計20人が3次予選に進んだ。福島県いわき市出身の牛田智大さん(25)、東京都出身の桑原志織さん(30)、愛知県大府市出身の進藤実優さん(23)。10/13現在

第19回ショパン国際ピアノコンクール
2025.10/2(木)〜10/23(木) 会場:ワルシャワ・フィルハーモニー
◎開会記念コンサート 10/2(木)
◎第1次予選 10/3(金)〜10/7(火)
◎第2次予選 10/9(木)〜10/12(日)
◎第3次予選 10/14(火)〜10/16(木)
◎本選 10/18(土)〜10/20(月)
◎入賞者披露演奏会 10/21(火)〜10/23(木)


「蔵王温泉」大露天風呂


「蔵王温泉」大露天風呂

山形県の山形市南東部、蔵王連峰の西麓にある温泉。標高880m。西暦110年頃、東征した日本武尊に従った吉備多賀由(キビノタガユ)によって発見され、多賀由から転じて高湯と呼ばれるようになった。共同浴場は上湯、下湯、川原湯が。春から秋にかけて、「蔵王温泉大露天風呂」が作られ、蔵王温泉の名物となっている。(11月下旬~4月中旬は冬季休業) 温泉の守護神として「酢川温泉神社」があり、少彦名大神を祀る。

全国で2番目の強酸性の硫黄泉。ここは浸かり湯のみ。源泉かけ流し。一度川の川湯に石を組み、庵を建てた素朴なつくり。上流は女湯、少し下が男湯。白い岩や平石でできた湯床。湯は水色。源泉に近い方は熱く、段の下がったところはぬるめになっており長湯できる。入浴後、硫黄の香りが翌日でも残る。たしかな硫黄泉。

さて、温泉の神様「酢川温泉神社」。240の石段を登ってたどり着く。

【御祭神】大国主命 少彦名命 須佐之男命 軻遇突智神

清和天皇「三代実録」のくだりに「出羽国六位上酢川温泉神従五位下」とある由緒ある神社で蔵王修験の三宮一社 山岳信仰神社のひとつ。

 


智恵子記念館~二本松~


智恵子記念館~二本松~

二本松市智恵子記念館という。高村 智恵子(たかむら ちえこ、1886年(明治19年)5月20日 – 1938年(昭和13年)10月5日、旧姓:長沼)は、日本の洋画家、紙絵作家。夫は彫刻家・詩人の高村光太郎。彼女の死後に光太郎が出版した詩集『智恵子抄』でも知られる。智恵子は柳八重の紹介で光太郎と出会った。創作に悩んでいた時、紙絵の創作をすすめられた。1912年(明治45年)4月、太平洋画会展に2点の油絵を出品し、6月には団扇絵展を開催。1913年(大正2年)9月、上高地に行く光太郎を追い、一緒に絵を描いた。翌年、光太郎と同棲をはじめた。活動の拠点は東京だが望郷の念は福島にあった。。1929年、実家が破産し精神的に病むようになる。1932年、自殺を図る。1935年(昭和10年)、南品川の精神病院「ゼームス坂病院」へ入院した。創作力を取り戻し、紙絵の作品を多く制作。1938年、肺結核で亡くなった。ゼームス坂病院跡地に慰霊碑「レモン哀歌の碑」がある。

安達太良山の薬師岳展望台に「ほんとの空」(智恵子抄より)の標柱がある。「あれが阿多多羅山、あのひかるのが阿武隈川。智恵子は東京には空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。」

光太郎と鞍石山(智恵子の杜公園)を歩き、そこから安達太良山を見た。1992年、酒蔵であった高村智恵子の生家が再現、裏庭に智恵子記念館が開設。記念館には彼女の油絵、紙絵が展示されている。

 


2025.10.9(木)13:00「おきがるタイム」FM816 vol.301


2025.10.9(木)13:00「マコルネのおきがるタイム」シャンソン・昭和歌謡・アコーディオン FM816 パーソナリティ マコルネ【ネットラジオ(リアルタイム配信)アプリなしで視聴】https://www.jcbasimul.com/radio/1302/

【予定曲】オリンピックマーチ ラ・メール オクトーバープレリュード 10月のハンカチ 満月 高校三年生 学生時代  雨降りお月 十五夜お月さん 夜霧の第二国道 いい日旅立ち 三日月娘

【コラム】10月13日(月・祝)は、スポーツの日。発端は、1964年開催の「東京オリンピック」で旧称は「体育の日」。スポーツを楽しむのはもちろん、健康チェック体力診断など。

古関祐爾記念館をたずねて:作曲家の古関祐爾は、福島県出身で生涯に5000曲に及ぶ曲を残した。作風はマーチで六甲おろしや栄冠は君に輝く、オリンピックマーチなど。楽器を使わず楽譜に記した事が驚き。記念館には作業場が復元されている。


阿久悠記念館~明治大学~


阿久悠記念館~明治大学~

1937年〈昭和12年〉2月7日 – 2007年〈平成19年〉8月1日[3])は、兵庫県淡路島出身の放送作家、詩人、作詞家、小説家。数々のヒット曲の歌詞を生み出し、日本歌謡界の黄金時代を築いた。1959年(昭和34年)に広告代理店・宣弘社(現在の電通アドギア)へ入社。コピーライター・CM制作を手がけながら、1964年(昭和39年)から放送作家として活動。1966年(昭和41年)に宣弘社を退職し、放送作家、作詞家としての活動を本格化させる。デビュー作はザ・スパイダースのグループ・サウンズデビュー曲「フリフリ」のB面「モンキーダンス」(1965年)。本格デビューはザ・モップスの「朝まで待てない」(1967年)オリコンチャートイン。生涯、作詞した作品は5,000曲とも。ジャンルは歌謡曲、演歌、フォークソング、コミックソング、アニメソング、CMソング。日本テレビ 『スター誕生!』で番組企画・審査員として関わる。

主な作品

1971年「また逢う日まで」尾崎紀世彦
1974年「宇宙戦艦ヤマト」ささきいさお
1976年「北の宿から」都はるみ
1977年「勝手にしやがれ」沢田研二
「思秋期」岩崎宏美
「津軽海峡・冬景色」石川さゆり
1978年「UFO」ピンク・レディー
1980年「雨の慕情」八代亜紀
1981年「もしもピアノが弾けたなら」西田敏行

6834.0万枚(2015年) – 作詞家歴代2位
他に小説『瀬戸内少年野球団』など

2010年、明治大学アカデミーコモン地階に阿久悠記念館が開設。ちなみに古賀政男も明治大学出身でつながりがあった。明治大学の神田駿河台キャンパスのアカデミーコモン地下1Fには開校140周年を迎えた「大学史展示室」があり、歴史を偲ばれる。
そのフロアに記念館がある。興味深いのは、この職業は、自宅にいながらなので、家族のめんどうをよくみたとされる。そして、サインペンと野球観戦記や26年にわたる日記。常に文字にする事をいとわなかった。

作詞は、秋元康、松本隆、松井五郎をはじめ シンガーソングライターにも優れた作詞家がいる。1970年~80年代の歌謡曲全盛期の歴史に名を遺す。
私の中では、作品として「津軽海峡・冬景色」や「雨の慕情」、そして「もしもピアノが弾けたなら」など親しんでいる。

雨の慕情 八代亜紀

詞の一文 女が男を追慕して雨を眺めている 雨雨降れ降れのフレーズ を3分間のドラマに仕立てている素晴らしい作品。何気ない歌詞のなかにも阿久悠の世界で文学である。

心が忘れた あのひとも
膝が重さを 覚えてる
長い月日の 膝まくら
煙草プカリと ふかしてた
にくい 恋しい にくい 恋しい
めぐりめぐって 今は恋しい
雨雨降れ降れもっと降れ 私のいい人連れてこい


デイサービス演奏


デイサービス演奏25.9.29

先日は、デイサービス演奏でした。
今回は、参加人数が増えていて、けっこうな事でございます。
ふだん、声をあまり出さない方も 歌を歌っていたと施設の職員は驚きます。
みなさんの青春時代に、それぞれの思い出に浸りながら。記憶を呼び覚ます。


古賀政男音楽博物館~代々木上原~


古賀政男音楽博物館~代々木上原~

1904年(明治37年)11月18日 – 1978年(昭和53年)7月25日)は、昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。史上二人目、また、作曲家としては初となる国民栄誉賞を贈られた。栄典は従四位、勲三等瑞宝章、紫綬褒章。明治大学商学部(旧制)卒業。少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽しつつ、大正琴を愛した。その後は、作曲者として数多くの流行歌を世に送る。生涯の楽曲は5,000曲といわれ、「古賀メロディー」として親しまれている。

1931年、日本コロムビア専属となった。当初は作曲に自信がなく文芸部の社員を希望していたが、結局、作曲家として契約した。このとき、東京音楽学校在籍中の藤山一郎と出会いで古賀政男の人生を大きく変えることとなる。1931年の『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』1932年の『影を慕いて』(藤山一郎 歌唱)がSPレコードでヒット。1948年(昭和23年)に近江俊郎の『湯の町エレジー』がヒット。1964年(昭和39年)に美空ひばりの『柔』は190万枚を売り上げ、1965年(昭和40年)の第7回日本レコード大賞を受賞。1966年(昭和41年)の『悲しい酒』が145万枚のミリオンセラー。作曲活動の傍らで1958年(昭和33年)に日本作曲家協会を創設し、初代会長。この翌年に服部良一らとともに創設したのが日本レコード大賞である。

1997年に開設した「古賀政男音楽博物館」 代々木上原駅から商店街を抜けたところ、井の頭通りに音楽博物館はある。古賀はこの周辺の土地を持っていた。広大なエリア。
1F けやきホール、ミュージアムショップ
2F 大衆音楽の殿堂顕彰エリア。令和6年は、坂本龍一が顕彰された。
3F 古賀政男の世界、古賀メロディーを楽しむ、小企画展示。マンドリン、ギターやピアノ、書斎の再現。屋外テラスも併設。小企画展示では、秋のテーマの曲を展示。
B1F 音楽情報室、カラオケスタジオ。

私の中では「影を慕いて」や「東京ラプソディ」「悲しい酒」、そして「東京五輪音頭」(三波春夫 歌唱)聴いていたい曲。

 

 

 

企画展 秋のテーマ 歌謡史を掘り下げる。情報の発信とわかりやすさがよい。


吉田正音楽記念館~日立~


吉田正音楽記念館~日立~

吉田正 1921年(大正10年)1月20日 – 1998年(平成10年)6月10日)は、日本の国民歌謡作曲家。茨城県日立市出身。生涯作曲数は2400曲を超える。都会的で哀愁漂うメロディーは都会調歌謡と称され、ムード歌謡から青春歌謡、リズム歌謡まで幅広く手掛けた。吉田正門下として、吉永小百合をはじめ、鶴田浩二、三浦洸一、フランク永井、松尾和子、橋幸夫、和田弘とマヒナスターズなど多くの歌手を育て上げた、戦後の日本歌謡史を代表する作曲家の一人。

戦争の悲惨な体験をした。満州で敗戦し、シベリア抑留された。その時の思いは「昨日も今日も=異国の丘」で、国内に作曲家知らずで反響を呼んだが、1948年に復員し、作曲家として活動を開始。1953年「街のサンドイッチマン」、1957年「有楽町で逢いましょう」、1962年「いつでも夢を」(吉永小百合と橋幸夫)、1968年「ぶらくり丁商店街」を舞台とする「和歌山ブルース」(古都清乃)でヒットを飛ばす。1998年、死去(77歳)。作曲家として3人目の国民栄誉賞を受賞。

2004年、故郷の日立市神峰公園(標高130m)に記念館が開設された。ここは市民の憩いの場で、かみねレジャーランドをはじめ、動物園、遊園地、市民プールがある海を見渡せる公園。橋幸夫が2012年から名誉館長をつとめられた。
訪れてよかった。日立駅から歩いたが3㎞、45分。暑い日で。バスでいってもかみね公園口から坂を登るのは変わらないし、バスの便数が少なくて。駅通りを歩きながら昼飯をチャージして、記念館まで歩く。キャリーの荷物が一緒だが、この急な坂はなかなかキツイ。しかし、遊園地や動物園などなんだか楽しいエリア。頂上付近には展望台があり景色がよい。

記念館は5F建ての立派なミュージアム。1Fの映像コーナーで、1曲3分くらいの解説付き動画がみられる。20曲。歌とともに時代を学ぶ。ショップコーナーが併設。2Fパネル展示とCDジャケットギャラリー204曲のヒット曲、3Fピアノ展示、4F作曲体験、5Fレストランから展望は気持ちよい。ここでコンサートが行われている事も。

私のお気に入りは「霧子のタンゴ」甘い低い声のフランク永井。そして、言うまでもなく「異国の丘」(竹山逸郎、中村耕造の歌唱)これは秋川雅史で聴いた時に、鳥肌がたって何度も聴いた。悲しみと戦争はダメな事を伝える。

 

内観は撮影禁止エリア ただし、5FのレストランはOK。詳しくはこちらで。

 


蔵王の御釜と「刈田岳」1759m


蔵王の御釜と「刈田岳」1759m

蔵王とは、宮城県と山形県にまたがる山地や宮城県蔵王町の事。正しくは、蔵王山と言うらしいが、そういう山はなく、最高峰は、熊野岳(1841m)で山形県側にある。宮城県側には屏風岳(1825m)や刈田岳(1759m)がある。象徴と呼ばれるのが蔵王連峰の中央部にある「御釜」(標高1670m)。3,000年前の噴火によって形成された、直径約330mの円形の火口湖で、五色沼(ごしきぬま)とも。最近だと1918年(大正7年)に噴火し、その際、御釜に噴気が発生した。この名は、福島や群馬にもある。御釜の湖岸線は1080メートル、東西直径325メートル、南北直径325メートル、最大水深27.6メートル、平均水深17.8メートルで、火山活動によって水深が変化する。水質はpH3.5の強酸性であり、生物は一切生息できない。幻の「五色川」が雪解け期に現れる。7月は、残雪による「魔女の瞳」が見られるかも。御釜の湖水は水面下で濁川へ流れ出ている。そして、水の色は、コバルトブルーまたは瑠璃色で多少変化し、神秘的。

蔵王エコーライン(無料)からハイライン(有料)に入る。手前の駐車場から刈田岳に登る方法もあるが。ハイラインを経て、山頂レストハウス駐車場に着く。観光客が多いので。山頂近くはすぐ満杯になってしまう。山頂レストハウスのレストランからは、熊野岳の絶景がみられる。さて、レストハウスからハイキングコース。とは言うものの、足場はよくないのでスニーカーは×。ゴロゴロ岩やザレた道を行く。分岐では、熊野岳方面と、刈田岳(刈田峯奥社)方面へ。
少し行くと、御釜がみえてきた。地元の人によると、3回に1回くらいの晴天で、曇ったりガスったりで見えない事もあるとの事。この日は、よく晴れた。

蔵王 御釜 神秘的な火山湖

手前の大黒点駐車場から この登山口から刈田岳へ行ける。

「蔵王山頂レストハウス」1720m 蔵王ハイランドを経て駐車場からすぐ

何とも荒々しい自然の大地。蔵王権現が祀られている。地層の褶曲が100万年を物語る。

その時、陽が一層差した。御釜の外郭部がくっきりとみられ感動。

刈田嶺奥社

刈田岳のピークに到達。蔵王国定公園の標柱。

蔵王刈田嶺神社 御朱印を授与する列ができていた。


曼珠沙華~安達ケ原~


曼珠沙華~安達ケ原~

9月20日頃、猛暑が落ち着きました。そして、22日あたりには、秋の空気に包まれました。秋を感じる。毬栗をみました。そして、曼珠沙華の花。秋を感じましたね。
ここは、智恵子抄の郷でもある。

彼岸花は、墳墓の脇や田んぼの畦道に見られる。そして、寺社仏閣でも見られるところがある。鬼婆伝説ゆかりの寺院である観世寺に隣接する安達ケ原ふるさと村では、町おこしに町民が球根を植え、立派な彼岸花の名所となりました。五重塔は高さ31m。彼岸花の群落は20万本ともいわれる。川の水と空の青、堤防に彼岸花の群落は圧倒的で、魅了されます。


安達太良山(1700m)日本百名山


安達太良山(1700m)日本百名山

磐梯朝日国立公園に指定。
山麓ー奥岳駅(標高950m)から山頂ー薬師山頂駅(1350m)へロープウェイで10分。
安達太良山は、万葉集にも登場。また、高村光太郎の詩集「智恵子抄/高村光太郎著」の『あどけない空の話』に「阿多多羅山の山の上に 毎日出ている青い空が 智恵子のほんとの空」とあり、薬師岳山頂広場に標柱がある。
東京には『ほんとうの空』がなく、故郷である二本松市の空だけが『ほんとうの空』だという・・・

登山コース:標準 150分 往き 95分 帰り 65分
往き 70分 山頂駅 9時1分 薬師岳分岐 9時3分 仙女平分岐 安達太良山 10時11分
下り 75分 安達太良山 10時20分 仙女平分岐 10時25分 薬師岳分岐 11時32分 山頂駅 11時35分

最初は樹林帯の木道でゆるやかでところどころぬかるみがある。山頂部が時々、顔を出す。登山道らしくなり、「馬の背」の手前15分が角度があがって急になる。ゆっくり登って仙女平に到達。ここから、溶岩ドームの山頂へ右から巻く。梯子や鎖を使って登頂。下りは、梯子を使って。紅葉の時期はまだで、高山植物が残っていて、楽しませてくれた。

馬の背から牛の背方面の矢筈森に行けるが、沼ノ平の爆裂火口の近くは火山ガスが発生しているので注意。1997年(平成9年)、火山ガスで4名の死亡事故が起きていて、立入禁止区域や通行禁止となっている。で、ピストンが無難だが、周回だと「峰ノ辻」経由ーくろがね小屋ー勢至平ー山麓駅《ロープウェイ使わない道》で下山する。

 

安達太良山の山頂の岩場がみえた。穏やかな丘の突起みたい。途中から登山道らしくなってくるが、時間が短いので、そのうち山頂手前の馬の背に着くだろう。

登りだして50分すぎ。山頂の突起が近く見えたが、まだまだ登り続ける。このあたりが一番しんどいところ。

山頂へは梯子が2か所あるが、右に巻いていく道もある。往きは右の梯子と鎖、帰りは左の梯子を使うらしい。2018年に取り換えられたもの。登山道整備に感謝。

 

標高1700m 景色がよい。

沼の平方面 爆裂火口

磐梯山方面。

帰りの梯子、降りにくい。

奥岳へ縦走もできる。時間がないので、今回はピストン。


古関裕而記念館~福島~


古関裕而(こせきゆうじ)記念館~福島~

古関 裕而(1909年(明治42年)8月11日 – 1989年(平成元年)8月18日)は、日本の作曲家。山田耕筰の推挙で東京の楽壇に進出。クラシック畑からポピュラー畑に転身、数多くの流行歌、歌謡曲、映画音楽、軍歌の作曲を手掛け、音丸の「船頭可愛や」、中野忠晴・伊藤久男らの「露営の歌」、伊藤久男の「暁に祈る」、霧島昇・波平暁男の「若鷲の歌」、渡辺はま子の「愛国の花」などを発表。戦後は、ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」や、二葉あき子の「フランチェスカの鐘」、藤山一郎の「長崎の鐘」、伊藤久男の「イヨマンテの夜」、織井茂子の「君の名は」、岡本敦郎の「高原列車は行く」ほか、数多くの大ヒット曲を世に送り出した。他では、早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」、慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、中央大学応援歌「あゝ中央の若き日に」、名城大学応援歌「真澄の空に」、三重県立四日市高等学校応援歌「希望の門」、 全国高等学校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神タイガースの球団歌「六甲おろし」、読売ジャイアンツの球団歌「巨人軍の歌(闘魂こめて)」、東京五輪の選手団入場行進曲「オリンピック・マーチ」、NHKスポーツ中継テーマ「スポーツショー行進曲」など、応援歌、行進曲で数多の作曲を手がけた。また、母校の福島商業高等学校の校歌「若きこころ」を始め、多くの校歌を作曲。5000曲に及ぶとされる。没後の1989年に国民栄誉賞の授与内定が打診されたが、遺族が辞退している。

福島県は、全国第3位の大きさをほこり、郡山といわきと福島が30万人都市の拠点だが、福島駅周辺は落ち着いた街並み。古関裕而のモニュメントが迎えてくれる。メロディーバスに乗車して記念館を訪れるとよい。記念館には書斎、作業場が再現されているが、そこに楽器はない。楽器を一切使わずに頭の中だけで作曲を行っていた。ベートーヴェンのように絶対音感と想像力や記憶力が優れていた。楽譜に記す事で音を感得し、和声をイメージできる。あるいは、和声をイメージして旋律を書き出せたのだ。その頃の、リムスキー=コルサコフの作曲法の本がおいてあったのが印象的。作曲家は自立できたのかというと、古関の場合は、才能を認められている。作詞家や歌手のコラボも欠かせない。西條八十やサトウハチローや菊田一夫の作詞家、藤山一郎や伊藤久男の歌手を忘れてはならない。

「オリンピック・マーチ」は、終盤に「君が代」の一部が挿入されていてさすがと言うべき。2019年、オリンピックが題材のNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』、2020年、古関裕而をモデルにしたNHK連続テレビ小説『エール』で使用された。2021年、東京オリンピック2020の閉会式の行進曲として57年ぶりに使用。私には、長崎の鐘やとんがり帽子、高原列車は行く、六甲おろしなどが馴染みある。古関マーチは、これからも発信しつづける。

私のお気に入りは「三日月娘」作詞:藪田義雄 作曲・編曲:古関裕而 (1947年)戦後の最初の映画のヒット曲は「リンゴの唄」だが、「ラジオ歌謡」の一端目のヒットはこの曲だった。退廃的なムードに嫌気がさしていた頃、この曲に救われたのだと。
流暢なリズムはマーチだが、3拍子。ショパンのポロネーズの如く。オブリガートにオリエンタルな音階。ピッコロやクラリネット、ヴァイオリンが描写している。哀愁のメロディーに藤山一郎の楷書の歌。
砂漠の時代、人はどのように生きるのか。寂しいときや悲しい時、疲れたときに、何かしらすがすがしい気分になる・・・

幾夜重ねて 砂漠を越えて
あすはあの娘の いる町へ
鈴が鳴る鳴る 駱駝の鈴が
思い出させて 風に鳴る

恋は一目で 火花を散らし
やがて真っ赤に 燃えるもの
あの娘可愛いや 三日月娘
宵の窓辺に チラと見た

急げキャラバン 夜道を駆けて
町へひとすじ 遠灯(とおあか)り
鈴が鳴る鳴る 駱駝の鈴が
はずむ心に 触れて鳴る

 

記念館は、教会のようでもあり、ホールでもある。デザインが素晴らしい。

ホールで、ピアノやハモンドオルガンの演奏のイベントが開催されている。