Year: 2022年

2022.8.25(木)13:00「おきがるタイム」vol.226


2022.8.25(木)13:00「マコルネのおきがるタイム」シャンソン・昭和歌謡・アコーディオン FM816 パーソナリティ マコルネがお届けします。
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【予定曲】クスノキ エーゲ海の真珠 ヨイトマケの唄 タンゴ組曲 ブエノスアイレスの夏 夏の終わり 去りゆく夏 椰子の実 炭坑節 虹色の湖 夕焼けの空 リンゴの唄

【コラム】先日、3年ぶりに開催できた演奏会に出演しました。演奏できる喜びをかみしめ、楽しい会になりました。


堺泉北うたの広場2022出演2022.8.11


「堺泉北うたの広場2022」出演2022.8.11

3年ぶりの開催。2020年も2021年も開催できず2019年以来。
歌に対する理解が、一部の感染者が出た事で敬遠されてしまっている。教育の現場では、うたは厄介者になってしまった。リコーダーなど一部の楽器で対応しているよう。
難しいかな、正しく恐れる。カラオケや会場などの室内でマスクなしで大声で歌う事。マスクなしは問題あります。一定の距離と換気を良くしないとエアロゾルによる感染は否定できません。マスクし距離をとり歌う。呼吸を深くしないとしんどいかもしれませんが、対応できてきたように思えます。(体調がすぐれない時は無理されずに)

あらためて歌の純粋なひたむきな姿に感動した。歌は心に響きます。府から徹底したコロナ対策が要請されていましたので。手指消毒、体温測定37.2℃までで入場可能。
感染者の周囲にいる方の参加を控えていただく事。リハーサル・着替えは会場では設けず各自で。ただし、演奏前の指定された音出しの時間を設ける。
エントリー終了後、会場を後にする事。参加者リストを名簿にし、何かあった場合は連絡する・・・など詳細な対策がとられています。

さて、私は
ミ・コンパニエーロ(アコーディオンデュオ)で2曲演奏。「風のささやき」ミシェル・ルグラン 「アヴェ・マリア」バッハ=グノー

ぞうれっしゃ合唱団のアコーディオンソリストとして出演。2曲演奏。「ぞうを売らないで」 「ぞうと平和と子供たち」抜粋

https://youtu.be/iYmvRjTGfSU


英霊を祀る「護国神社」


英霊を祀る「護国神社」2022.8.11

最初にことわっておくが、私は戦争を正当化するつもりは毛頭ない。護国や靖国の単語がでると途端に喧嘩を売ってくる人がいる。私は争う事を望まない。
慰霊するところの要望がありこの社寺が建った。当時の状況とは変わってきているのかもしれないが、現在の姿として遺されているものである。

毎年、7月末に「平和の戦争展」に出演している事から 戦争と平和について考えるようになり、ラジオパーソナリティとして伝える仕事を担っている事から、現状を知るため個人的に取材していった。個人的な感想を述べるかたちとなっているが、番組は放送後、消えてゆく。何か遺すものとしてこのブログを備忘録としている。

灼熱の炎暑。火傷するくらい皮膚に刺さるような照りつける太陽が憎い。夏が好きなのに。広島や長崎の慰霊祭に出席した時の太陽の暑さは、眩暈がするほど。
当時から20年以上が経っているが、最近のこの暑さには言葉も出ない。日中涼しいところでいる事につとめなければ。実は、昨日あたりから頭が痛くて鎮痛剤を飲んでも治らない。熱はない。それが、地震の前触れなのかわからない。ピリピリ系は噴火なのだが今回は違う。鈍痛なので地震系だと思う。

毎年、この時期になるとここを訪れる事にしている。「堺泉北うたの広場2022」の出演が終わり、こちらで礼拝。

「大阪護国神社」戦後77年。大阪には戦歿者の御霊を恒久的に奉斎する神社がなかったため、府民の間から朝夕英霊にいつでも参拝し、その勲功を顕彰したいとの機運がおこったため、知事が内務大臣指定の護國神社として昭和十五年に創建。御祭神、明治維新前後の天忠組10柱を始め、西南の役、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争に至る105665柱の英霊を祀られている。


戦後77年を考える2022.8.15


戦後77年を考える2022.8.15

1945年(昭和20年)8月15日、昭和天皇の玉音放送によりポツダム宣言【無条件降伏】受諾により終戦した。勝った負けたということでは、敗戦した。
その背景は重要。開戦は1941年12月8日真珠湾攻撃にはじまる。それより前の1941年11月、アメリカからの「ハル・ノート」を受け入れられなかったというものである。日本軍の中国大陸からの撤兵を要求するものだった。この大戦は、1945年8月15日終戦を迎え9月2日に講和条約が結ばれ国際的な終戦となったが、当時の日本の人口7000万人のうち戦没者は310万人でそのうち民間が80万人。軍人のなかで捕虜となり、終戦後、殺害されたのは38万人にのぼっている。全世界では、20億人の人口に対し8000万人が亡くなったとされている。多大な犠牲を払った大戦であった。戦後、戦犯を問う「極東軍事裁判」が1948年(昭和23年)11月に判決が行われ、A級戦犯とB級戦犯が裁かれ28名のうち2名は死亡、1名は免訴、25名が量刑を受け、うち東條英機や松井石根ら7名が死刑を宣告された。捕虜の問題として「モンテンルパの夜は更けて」にあるように、マニラ市ニュー・ビリビッド刑務所で戦犯として留置され、1951年、戦後6年目に処刑された14名の生命。1953年、キリノ大統領の恩赦で釈放された。日本もソ連軍にシベリア抑留された日本人の数は57万人とされ過酷な労働やが虐待などで58000人が死亡、473000人が帰還したとされるが、不明者が多く、正式な数がわからない。

植民地という言葉が重いがスペイン・ポルトガル・イギリス・フランス・オランダ・ロシア・ドイツ・イタリア・ベルギーなどがアメリカ大陸・南アメリカ大陸・アフリカ大陸などに進出した。日本も進出し、外地としてきた。【施政権は総督府など統治政権による】
台湾(日清戦争後1895年、下関条約により割譲)南樺太(日露戦争後1905年、ポーツマス条約により割譲、後に内地編入)
関東州(ポーツマス条約により租借地承継)朝鮮(1910年の日韓併合条約により大韓帝国の併合)
南洋群島【ミクロネシアなど】(第一次世界大戦後1922年、国際連盟規約により委任統治)
※満州国(1932-45)の独立国家は日本の準植民地とされる見方がある。

日清戦争(李氏朝鮮の内乱)、日露戦争(朝鮮半島と満州の権益)、満州国樹立、日中戦争【盧溝橋事件】など戦争の時代があった。
講和条約により領土が変遷している。日本は大東亜共栄圏を謳い戦争に手を染めていった。大東亜共同宣言には『相互協力・独立尊重』などの旨が明記されている。
ひとつの見方として日本は、アジアの盟主としてのヨーロッパ植民地からの解放とされているが、慎重にみなければならないセンシティブな内容である。統治下に置かれた民衆は本当に解放されたのか、それとも虐げられたのか。もうひとつ、外地での犠牲者についての考えはどうなのか。海外の戦没者は240万人あり 遺骨が見つからない人が110万人。

ここでは、終戦前後の日本をまとめていく。今上天皇は「日本のいたみ」として忘れることができない4日間として
沖縄慰霊の日 広島原爆の日 長崎原爆の日 終戦の日 をあげられている。

沖縄戦について 4月1日~6月23日(厳密には3月26日~9月7日) 持久戦を強いられた。人口49万人から15万人の県民、県外が7万人、20万人を超える尊い命が失われた。現在も、3000人が行方不明となっている。砦として、人権を踏みにじられた沖縄の人々。防衛召集により動員された日本軍史上初の14~16歳の学徒による少年兵部隊。戦争法によれば、一般国民が戦争に参加するのは考えられなかったが、兵力の減少で半ば強制的に志願兵として集めたのである。では、武器はあったのか。武器は手榴弾しかなく竹槍で訓練をしていた。もはや精神論で勝てる筈はない。特攻や「斬り込み」の玉砕で敵に突入して自爆する酷い戦術が強いられた。また、米兵に捕虜になるのは恥だとされ、自決するものも多くいた。一度に家族親族40人が死んだ例もある。米兵も、軍との対抗であれば捕虜が考えられるが、掃討作戦は、一般国民を殲滅する内容で、疑問が残る。牛島中将自決 6月23日が組織戦としての投降を意味するが、抵抗を続け実際は9月2日の調印頃まで続いていた。

1945年(昭和20年)7月26日のポツダム会談では、日本の戦後処理が扱われた。ソ連がアメリカに連合国軍として日本に宣戦布告したい旨、確認したとされている。
アメリカは憂慮した。連合国軍側は日本政府に対して「日本軍の無条件降伏などを求めるポツダム宣言」を要求した。日本側はこれを黙殺したが、メディアは「拒否」と報じた。最高戦争指導会議や閣議でも検討はされたが、陸軍は玉砕を提案。海軍はすでに停戦を提唱していた。沖縄戦の時、日本の海軍は全滅していて機能しなかった。しかし「国体」の無条件降伏は受け入れられない。アメリカは、拒否されたのは「想定済み」で原爆投下にむけてすすめていたが、急展開。1945年7月16日、人類史上初の原爆実験「トリニティ実験」が行われ実験データが入ってきたことにより詳細な遂行をすすめていく。

原爆の事。ドイツの物理学者アインシュタイン(1879 – 1955)はナチスがドイツを掌握した事でアメリカに亡命した。アインシュタインは、ウランは平和的利用限定されるものだとしていた。1939年、ハンガリー出身の物理学者シラードはナチス・ドイツが原爆開発することをおそれ、ルーズベルト大統領へ原子エネルギーの開発についての書簡を送りアインシュタインに署名を求めた《アインシュタイン=シラードの書簡》。「ドイツが原子エネルギーの開発に成功した」というのは取り違えであった。これ以降、アメリカがウラン研究の「マンハッタン計画」をすすめ主導したのはオッペンハイマー。1942年、研究所が創設される。1945年6月11日「フランクレポート」によるとドイツが原爆を開発していない確証が得られた事を知ると「後悔している」と語った。そして、ヒロシマ ナガサキへ。

原爆投下の候補地についてテニアン島から広島市までは2700kmの距離。
4月 原爆投下を研究する地域を選定した。この中には、京都も含まれていた。
7月 広島、小倉、新潟、長崎(京都を除き、長崎に変更)に投下命令。(26日)※ポツダム宣言拒否後、広島を最優先目標に決定。(31日)
8月 目標から新潟を除外。(1日)攻撃日を6日、投下目標を広島、小倉、長崎とする最終命令。(2日)
広島にウラニウム爆弾「リトル・ボーイ」原爆投下(6日)人類史上初の一般市民に対する核攻撃
長崎にプルトニウム爆弾「ファットマン」原爆投下(9日)人類史上2回目の一般市民に対する核攻撃で実戦で使用された最後の核兵器

広島は、捕虜収容所がなかった事、軍需工場があった事、これまで大規模な空襲がなかった事、平野が広がる地域で晴天が期待でき最大の効果が期待できた事などがあげられる。
長崎は、当初、第一目標であった小倉が視界不良であったため、直前(10時30分)に変更された。軍需工場があった事があげられる。

8月6日午前8時15分 テニアン島からエノラ・ゲイ「新型爆弾」リトルボーイは約43秒間落下した後、相生橋より東南の島病院付近高度約600mの上空で核分裂爆発を起こした。広島市35万人のうち20万人を被爆に陥れ命を奪う。日本を壊滅的な被害にし降伏させるためには、もう一発投下する必要があったとされている。つまり、2回予定されていた。
実は、8月8日ソ連が日ソ不可侵条約を破棄し参戦した。アメリカは焦った。火事場泥棒が邪魔になった。

8月9日午前11時2分市街中心部から北へ約3km、松山町の上空503mで炸裂し長崎市24万人のうち9万人を被爆に陥れ命を奪う。後になってわかった事だが、広島への原爆投下の話をきいた八幡製鉄所の社員が小倉上空へ煙幕装置に点火し、新型爆弾に警戒した。10時30分、小倉の計画を変更、長崎に向かい10時50分長崎上空に到達。雲間から一瞬、長崎市上空がみえた10時58分、高度9000mから投下された。

御前会議は8月10日に行われ聖断を仰ぎ「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に受諾するという回答をスイスに打診。14日にも会議が行われ、終戦の詔勅が発せられた。終戦宣言についてすすめられ玉音放送の録音盤をめぐって宮城(きゅうじょう)事件が軍部から起こり騒然となるが、宮内庁の機知巧妙な対応により予定通り玉音放送がされ、8月15日正午に終戦宣言となった。終戦宣言後もソ連は、千島列島 樺太、満州に侵攻してきた。講和条約調印までは、まだ終戦でない。千島列島の占守島(シムシュ島)の戦い【8月18日~21日】があり、武装解除後の異例の戦いで日本は最前線を守り停戦交渉に署名した。しかし、ソ連軍は北方四島(得撫、択捉、色丹、国後島)に上陸する。8月31日までに得撫島に上陸、占領。9月1日、択捉、国後島に上陸。9月5日までに択捉島・国後島・色丹島を占領。9月5日に歯舞諸島に上陸、占領。

9月2日 日本は、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリの船上で、連合国と降伏文書を締結した。これにより停戦。連合国側として連合国最高司令官とソ連を含む各国代表も署名を行い、国際的に停戦が確認された。既に8月22日に千島諸島の日本軍は戦闘停止していたが、連合国からの指令「一般命令第一号」で千島諸島の日本軍は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏すべきこととされた。ソ連は北海道の北半分を占領しようとしていた。9月27日には「マッカーサー・ライン」が規定され「納沙布岬と水晶島の中間」、歯舞群島近海の日本漁船の活動が禁止されたが「貝殻島は日本の海域」とされた。しかし、1948年(昭和23年)12月にマッカーサー・ラインが納沙布岬と貝殻島の中間に引き直され、貝殻島周辺海域もソ連の実効支配下に入った。1946年(昭和21年)1月29日、GHQの「指令第677号」により歯舞群島に対する日本の施政権が停止されると、2月20日にソ連政府が自国領編入を宣言。

日本とソ連は、日ソ共同宣言(1956年)10月19日に調印した。宣言には、さまざまな条項が取り決められた。日本の国連加盟もその時だった。「日ソ両国は引き続き平和条約の締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡す」とある。その後、歯舞群島と色丹島は返還されていない。

島国の日本は、北側に北方四島問題、西側に竹島問題、南側に尖閣諸島問題があり、緊張状態が続いている。

 


「リラ・クラシック」2022.8.20(土)7:00 グリーグ vol.102


2022/8/20(土)7:00「リラ・クラシック」は、クラシック音楽でリラックスする60分。第3週・第5週 パーソナリティ マコルネがお届けします。
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【曲予定】グリーグ ペール・ギュントから朝 ソルヴェイグの歌
ピアノ協奏曲イ短調より第1楽章・第3楽章

【コラム】ノルウェーの作曲家「グリーグ」はロマンティックで民族性のある音楽を作曲し親しまれている。北欧のショパンともいわれている。

有名なピアノ協奏曲イ短調作品16 冒頭の音は、フィヨルドの滝の落ちる様を描写したとか。


2022.8.11(木)13:00「おきがるタイム」vol.225


2022.8.11(木)13:00「マコルネのおきがるタイム」シャンソン・昭和歌謡・アコーディオン FM816 パーソナリティ マコルネがお届けします。
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【予定曲】花火 いのちの歌 さとうきび畑 喜びも悲しみも幾歳月 長崎の鐘 異国の丘 湖畔の宿 君の名は モンテンルパの夜は更けて 聖母たちのララバイ

【コラム】「戦後77年」昭和の激動の時代と令和の時事。沖縄復帰50年の年。ウクライナ侵攻により、安全保障が揺らいでいる今こそ、平和へのアクションを。


堺平和の戦争展2022②「うたごえ」エンディングのつどい22.7.31


堺平和の戦争展2022②「うたごえ」エンディングのつどい22.7.31

18年前から続く平和のシンポジウム Withコロナ

7月31日 二日目

ステージ 暁光高校 平和ゼミナール DVD「語り継ぐ大阪大空襲」

第一会議室 ウクライナに平和を
おりがみ ちぎり絵 かみしばい 習字 えてがみ バザール

出演しました。コロナ禍にもかかわらずご来場された方に感謝。
7月27日、大阪府知事から医療非常事態宣言「高齢者に対しての外出自粛要請」が発出された。一日の感染者が20000人を超え「赤信号レベル」に達したため。

同じ事を繰り返さないため、乗り越えなければならない試練。
3年ぶりにうたコーナーが復活した。

 

エンディングのつどい

ウクライナの平和を考え支援しよう

が採択されました。

 


堺平和のための戦争展2022①「ステージ」22.7.30


堺平和のための戦争展2022①「ステージ」22.7.30

18年前から続く平和のシンポジウム Withコロナ

一日目

ステージ 平和の歌 四国五郎が伝える戦争の記憶 他

出演しました。
7月27日、大阪府知事から医療非常事態宣言「高齢者に対しての外出自粛要請」が発出された。一日、感染者が20000人を超え「赤信号レベル」に達したため。

同じ事を繰り返さないため、乗り越えなければならない試練。
3年ぶりに「平和の歌」コーナーが復活した。

 


富士山本宮浅間大社奥宮【頂上奥宮】3700mの世界


富士山本宮浅間大社奥宮【頂上奥宮】3700mの世界

富士山には頂上部に八神峰(はっしんぽう)という標高3700m級の13の峰が周囲2.5kmの火口の縁がありその中の最高峰が剣ヶ峰(3776m)である。吉田口、須走口、富士宮口、御殿場口にそれぞれ頂上があり2つのお宮がある。それが浅間大社。浅間神社は静岡県富士宮市に本宮をおく「富士山本宮浅間大社」で静岡、山梨をはじめ全国で1300ある総本宮である。日本の神社は5万とあり神社庁では8万あるとされている。大宮は、現在の地「富士宮」にある。806年、坂上田村麻呂が創建した。初めて富士登山を行ったのは、大宝元年(701年)の役小角であるとされ、平安時代の空海も大同2年(807年)登拝したとされる。末代上人(1149年)は奥宮の山頂に大日寺を建立した。江戸時代には藤原角行が富士講を盛んに呼びかけ庶民に広まった。富士山は日本国の象徴の神の山として崇敬されていた。それは、葛飾北斎などの絵画にもあらわれている。

【元禄の争論】元禄16年(1703年)に散銭や山小屋の経営などを巡り須走村が富士本宮を訴えた論争で須走の全面的な勝訴だった。
【安永の争論】安永元年(1772年)の争議で、安永8年(1779年)に裁定され富士山の8合目以上は浅間大社の支配となった。

八合目より上は境界未定地とされており山梨、静岡のいずれの地でもない。富士山山麓については、静岡県富士宮市、富士市、裾野市、御殿場市、駿東郡小山町と、山梨県富士吉田市と南都留郡鳴沢村が属している。これは【元禄の争論】元禄16年(1703年)と【安永の争論】により、安永8年(1779年)からこの状態である。武田信玄と徳川家康の争いであったかどうか。駿河国内(富士宮と須走)で起きた争議で奉行が裁定している。山梨県(面積が全国32位)は山間部が多いがコンパクトで観光施策など行政の関連度が高い。静岡県(全国13位)は浜松市が2位、静岡市が5位、3つの地域(駿河・伊豆・遠江)の山間部が深く過疎帯がありバランスが難しい。長野県(全国4位)も広大でバランスを取りにくいとみられる。マイカー規制などの体制について自治体それぞれのやり方に違いがある。

久須志神社【東北奥宮】と浅間大社奥宮【頂上奥宮】標高的には東北奥宮が高いが、格式としては頂上奥宮が最高の地である。それは「禁足地」を祀る事からもうかがえる。

A 久須志神社【東北奥宮】(標高3715m)日本最高峰に位置する。明治時代まで「薬師堂」と呼ばれていた。神仏分離令以降に富士山本宮浅間大社の奥宮の末社となった。
祭神:大名牟遅命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)

B 浅間大社奥宮【頂上奥宮】(標高3712m)※禁則地の浅間岳は 標高3722m
祭神:木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)【浅間大神】 大内院 3537m ※禁則地 を祀る。

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関連した神社

○山宮浅間神社

山宮は『富士本宮雑記』によると「景行天皇四十年庚戌年(110年)」とある。日本武尊が、東征で駿河国(するがのくに)を通られた際、賊徒の野火に遭われました。富士大神の加護によって賊徒を征伐。浅間大神を山宮へ奉斎した。これが山宮浅間神社の地である。

○須走浅間大社「東口本宮 冨士浅間神社」

平安時代初頭、桓武天皇の時代・延暦21年(802年)、富士山東脚が噴火。国司・郡司は、住人のために、須走の地に斎場を設け鎮火祭を斎行。4月に噴火が収まった。この御神威を、平城天皇の時代・大同2年(807年)鎮火祭跡地に祠を祀ったのが、創建と伝えられている。平安時代、空海が修行を行い、富士登山をしたとされ近世まで弘法寺浅間宮と称されていた。室町時代後半(戦国期)・江戸時代、一般庶民による富士山登拝信仰・富士講や修験道者の信仰を集め、須走口登山道・須走の宿場町とともに栄えた。須走口登山道の9合目・迎久須志之神社、6合目・胎内神社、5合目・古御岳神社、4合目・御室浅間神社、2合目・雲霧神社は当社の神主により祭祀が行われていたのである。

○冨士御室浅間神社

富士山二合目には、今は奥宮とされる小さな社がある。文武天皇3年(699年)に藤原義忠が祭祀を行ったのが冨士御室浅間神社の創建と伝えられていて、富士山最古を謳っている。 浅間神社を本宮とし、山梨県富士河口湖町勝山に里宮として鎮座している。祭神:木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。

○富士山本宮浅間大社(富士宮市)

大同元年(806)坂上田村麿は平城天皇の勅命を奉じ、現在の大宮の地に壮大な社殿を造営し、山宮から遷座されました。広大な境内には、本殿を中心に、拝殿、幣殿、楼門、鉾立石、湧玉池などが配置されている。


新型コロナウィルスBA.5 最高19万人感染 「検査難民」見直しか 2022.7.22


新型コロナウィルスBA.5 最高19万人感染「検査難民」見直しか 2022.7.22

「第7波」が猛威をふるっている。重症化は少ないようだが、死亡者が69名と、増加しているのが気になります。重症者は191名も増えています。
政府は、現時点で行動制限するつもりはないとの見解だが。各自治体は、蔓延防止対策の時に設定した人数制限、時間制限など工夫して独自の政策を行うだろう。
医療ひっ迫をどう食い止めるか。

かつての、営業短縮、休業の自粛をしたお店に対して特定の業種に「給付金を支払う」というのは、たった1時間で効果あるの?
ですが、自粛にはつながっていると思われるので。ただ、特定の業種のみに支払われるのは理不尽だと指摘がずっとされている。

いつまで経っても医療ひっ迫が起きて「第〇波」で怯える事からはいつからか脱却しなければならない。ワクチン、経口薬、検査キットは、謎のまま。
薬局の検査キットは、入荷即日完売で品物がないと苦情が出ている。検査キットは1億枚あると官房では言っていたが、そんなのすぐになくなっているではないか。

指定病院でしか処方できない体制をいつまで続けるつもりなのか。経済が疲弊していて体力がない企業もあり、余裕がない。
すぐ、人員削減しなければならなくなる。生活保護はどれだけ増えたのか。政府は、失業者のデータを公開するべきだし、対策を強化されなくてはならない。

一日18万人以上。集団免疫の話が出ているが それはBA.5の事であって、新種が蔓延するのは、病原菌の方が勝り、免疫が落ちてきているので
ワクチン接種が望ましいというが、それもいきわたっていない現実。

さらに、無症状者でない感染者(自覚症状のある)が病院に行くときに救急車使わないでほしいという意見が出ている。救急の出動がパンク状態になりかけている。本来の業務である救急患者のための救急車を手立てすることが難しくなっている。しかし、子どもの重篤化で呼吸しづらい、40度近くの高熱で歩けなかったりで救急車を使わなければならないケースが急激に増えているようだ。

他に、若年層でいるらしいが、発熱してしまい解熱剤でおさえたが(病院で検査せず)そのまま職場や公共の場所に行く・・・あり得ない行動態度。
もちろん 感染を広げてしまっている。普通なら病院で検査し、3日から5日間以上待機するはずなのだが。検査キットや体制が拒否されたりしているのだろうか。
また、陽性と判断されれば、帰りの交通経路が徒歩かタクシーになり負担が増すので病院での検査をしないのだろうか。
私なら率直に「検査機関と連絡がとれないので自宅待機、5日間していいですか」と報告するだろう。それにしても感染力が強い。

それから、換気の悪いところの管理ができていないお店に気を付けた方がよい。〇〇では店によるが冷房がものすごく効いていて気づかないのかな。イートインスペース、咳が出ている人がいる。換気をしている様子はみられなかった。お客さんは5分に一度くらいは入出しているようだが。

周辺に感染した方を知っているが、2回目ワクチン受けているのに罹患してしまったが、またも再感染しているという。
この人は、職場が徹底した感染対策が行わなければならない行政機関なので。それ以外からの感染か、あるいは抵抗力が弱っているのか。やはり子どもからか。
また、職場でも「あの人 前コロナに罹患したのに また罹っているよ」と、体調の具合が明らかに悪いらしい。
その人は、体格もよいが、以前コロナに感染してから「疲れやすい」と言っていたので後遺症で発症しやすいかもしれない。
といっても、彼らは誰からかのBA.5が感染したのであるから、マスクしなかったり、人込みに外出するとか、そういう傾向があるのなら注意してもらうしかないが。
それが、子どもからの家庭感染だから歯止めがきかない現実があり、そういった事が数字に表れてきている現状。これ以外の感染者も多くいると思われる。
夏休みに入ったので子どもたちは学校に行かない。濃厚接触者が外出を控えていれば、コロナの感染者は今までのような勢いはなくなり、停滞気味になるのでは。

私は猛暑のおさまる8月15日あたりまであと2~3週間が山で高止まりするとみていて、自然に減るまでは、まだまだ油断のできない新型コロナとの闘いが続くのでは。
終息を願うしかない。