平成の終わりと新元号「令和」れいわ 5月1日施行
昭和64年から平成元年は 自粛モードの中行われた。昭和64年 1月1日~7日 平成元年 1月8日~12月31日。
私は学生時代。昭和天皇の御容態が思わしくなかったので、自粛モードだった。
日本は、ことたまの国。不吉な事を助長する言葉は避けなくてはならない。
方角も気にする。吉方でないときは、回り道を。
動画が懐かしいが、昭和時代の終わりは凄いものだった。国葬、大喪の礼は2月24日行われ、葬送曲『哀の極』が奏楽された。
民間のCMは流されなかった。平成天皇は約2か月のもがりの儀を行い、その後一年間喪に服した。
インターネットがまだ発達していない頃だったので テレビのニュースで持ちきりだったのを覚えている。そして、世界中が哀悼の意を示し気遣ってくれた。
今回は、生前退位であるので、殯「もがり」の儀は行われない。ご負担を和らげることができよかったのでは。
国の象徴としてのつとめを果たされた 天皇陛下、美智子皇后に感謝の念を伝えたい。
新元号「令和」は、穏やかな年でありたいと願うばかりである。
昭和の終わりを回顧して・・・
明仁謹んで
御父昭和天皇の御霊に申し上げます。
崩御あそばされてより、哀痛は尽きることなく、温容はまのあたりに在ってひとときも忘れることができません。
櫬殿(しんでん)に、また殯宮(ひんきゅう)におまつり申し上げ、霊前にぬかずいて涙すること四十余日、無常の時は流れて、はや斂葬の日を迎え、轜車にしたがって、今ここにまいりました。顧みれば、さきに御病あつくなられるや、御平癒を祈るあまたの人々の真心が国の内外から寄せられました。今また葬儀にあたり、国内各界の代表はもとより、世界各国、国際機関を代表する人々が集い、おわかれのかなしみを共にいたしております。皇位に在られること六十有余年、ひたすら国民の幸福と平和を祈念され、未曾有の昭和激動の時代を、国民と苦楽を共にしつつ歩まれた御姿は、永く人々の胸に生き続けることと存じます。こよなく慈しまれた山川に、草木に、春の色はようやくかえろうとするこのとき、空しく幽明を隔てて、今を思い、昔をしのび、追慕の情はいよいよ切なるものがあります。誠にかなしみの極みであります。
— 今上天皇による御誄(おんるい) 斂葬の儀 葬場殿の儀
大喪は皇族のほか臣民も喪に服する。
皇族は父、母、夫の喪に1年、 祖父母、夫の父母、妻の喪は150日、 曾祖父母、母方祖父母、父の兄弟姉妹、兄弟姉妹の喪は90日、 高祖父母、嫡母、継母、夫の祖父母、母の兄弟姉妹、父の異父兄弟姉妹、異父兄弟姉妹、子の喪は30日、 男系の孫、父の兄弟の子、母の異父兄弟姉妹、兄弟の子、夫の嫡母継母、妻の父母の喪は7日、 母方高祖父母、母方曾祖父母、男系の曾孫玄孫、父の姉妹の子、姉妹の子、異父兄弟姉妹の子、母の兄弟姉妹の子、女系の孫の喪は5日とし、7歳未満の殤には喪に服さない。
天皇は皇族でない親族のためには、皇族は同族または華族でない親族のためには、喪に服さない。
二様の親族関係があるときはその喪はその重きに従う。
両喪重複するときは重複の間その重きに従う。
皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃の薨去の場合にはその日から3日間および喪儀をおこなう当日、臣民も喪に服する。
親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王の国葬の場合には喪儀を行なう当日臣民も喪に服する。
喪服に関する規定は勅定により宮内大臣(現在の宮内庁長官職に相当)が広告する。
天皇が大行天皇(崩御した後にその天皇の追号が定められるまで、新たに即位した天皇と区別するための呼称)、太皇太后、皇太后、皇后の喪に当たるときは大喪とする。
天皇は大行天皇および皇太后のためには1年、 太皇太后のためには150日の喪に服する。 その他の場合は上記のとおり。
大行天皇および皇太后のためにする大喪を諒闇とする。
皇妣(天皇の亡母)である太皇太后のためにする大喪もまた同じく諒闇とする。
大喪に関する事項は宮内大臣が広告する。
天皇が喪に丁るときは大喪を除き、宮中喪とする。
天皇は上記の規定にかかわらず皇太子、皇太孫のためには90日の喪に服する。
ただし7歳未満の殤には3日である。
天皇は親族関係にかかわらず皇太子妃、皇太孫妃のためには30日の喪に服する。
宮中喪に関する事項は宮内大臣が広告する。
1年の喪は3期に分ち、第1期および第2期はそれぞれ50日とし、残日数を第3期とする。
150日の喪は3期に分ち、第1期および第2期はそれぞれ30日、残日数を90日とする。
90日の喪は2期に分ち、第1期は20日、第2期は70日とする。
30日の喪は2期に分ち、第1期は10日、第2期は20日とする。
7日以下の喪は期を分けない。
《天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません》
皇室ジャーナリストの神田秀一氏は、
「『殯』と聞いても、ほとんどの人はそれが何を表すかわからなかったと思います。陛下が『お言葉』の中でご自身の老いや公務へのお気持ちに触れられると予想していましたが、具体的に『殯』に言及されたのには驚きました」
『もがり』とは「も(喪)あ(上)がり」が起源といわれ、大辞泉には『荒城(あらき)』に同じと記される。『あらき』の項目には《貴人の死体を、墳墓が完成するまで仮に納めて置いたこと。また、その所》とある。
昭和天皇崩御をひもとくと、たった数十字では表すことのできない陛下の苦悩の記憶が蘇ってくる――。
「古くは『魏志倭人伝』にも記されている『殯』は、死者の蘇りを願い、すぐには埋葬せず腐敗が進むまで儀礼を続ける日本古来の葬礼の形式です。いわゆる“お通夜”に当たるものといえます」(前出・皇室記者)
昭和天皇が崩御された1989年1月7日の翌日から、『大喪の礼』が行われた同年2月24日までのおよそ50日間が「殯」にあたり、連日24時間にわたる『殯宮祗候(ひんきゅうしこう)』が行われた。
「殯宮祗候は、ご遺体のそばに控えて故人を偲ぶことを言います。崩御から約2週間は吹上御所に、その後は宮殿の松の間にしつらえた『殯宮』に、昭和天皇のご遺体を納めた棺は安置されました。それからは、宮内庁職員や政治家、経済人などが10人ほどのグループになって交代で、真っ暗で静寂に包まれる殯宮の中で昭和天皇を偲びました。
吹上御所にお体があるうちは、皇族方と旧皇族も含めたご親族が24時間体制でおそばに控えられました。しかし人数は限られるので、交代で当たられてもすぐにまた順番が回ってくる。崩御から間もないのに、悲しみに暮れる間もなく、夜を徹しての役割を担わねばならないのです」(皇室ジャーナリスト)
新たな天皇は、崩御当日には皇位継承の証となる天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、国璽(こくじ)と御璽(ぎょじ)を受け継ぐ『剣璽等承継(けんじとうしようけい)の儀』が行われ、翌日には新しい元号が発表、さらに翌日には天皇としてはじめて声明を発表する『即位後朝見の儀』などが立て続けに行われる。
当時、宮内庁の報道室に勤めていた皇室ジャーナリストの山下晋司氏はこう振り返る。
「棺に供え物を捧げる『日供(にっく)の儀』など毎日欠かさず行われるものも、逐一、陛下に相談した上で進められました。ご遺体を埋葬する御陵の造営や、大喪の礼に向けた準備なども同時並行していきます」
もちろん、古来の伝統的な「儀」がすべてではない。通常の務めである国事行為などの公務はその間も途切れることはなく、諸外国からの弔電に目を通し、答電されるのも、新たな天皇の役目。
「昭和天皇の“遺品整理”も差し迫っていました。皇位と共に伝わる由緒ある物(=御由緒物)か、昭和天皇の個人所有物かの仕分けです。御由緒物であれば相続税はかかりませんが、個人所有物は課税対象になるのです。たとえば、三種の神器や数百年前から天皇家に伝わる物は御由緒物、明治以降の献上品は個人所有物、といった具合です。
仕分け作業は職員が行いましたが、陛下にご説明し確定させていきました。また、昭和天皇の公務はすべて陛下が引き継がれましたが、皇太子時代に陛下が行われていた公務をすべて皇太子殿下に引き継がれたわけではありませんでした。公務の“交通整理”も陛下のご意向を伺いながら決めていきました」
大喪の礼が過ぎても、節目で「儀」が行われる上、『即位の礼』に向けた準備も始まる。天皇はもちろんのこと、皇族方、それを取り巻く職員に休む暇はまったくない。だが、こうした目に見えるものだけが、陛下が苦悩を示される記憶ではない。皇室ジャーナリストはこう忖度する。
「『殯』の期間中に、ご遺体は腐敗し白骨化していきます。棺の中とはいえ、おそばに皇族方が控えられるという状況に抵抗感や、より悲しみを増幅させてしまうのではないかというご不安も抱かれていることでしょう」