戦後77年を考える2022.8.15
1945年(昭和20年)8月15日、昭和天皇の玉音放送によりポツダム宣言【無条件降伏】受諾により終戦した。勝った負けたということでは、敗戦した。
その背景は重要。開戦は1941年12月8日真珠湾攻撃にはじまる。それより前の1941年11月、アメリカからの「ハル・ノート」を受け入れられなかったというものである。日本軍の中国大陸からの撤兵を要求するものだった。この大戦は、1945年8月15日終戦を迎え9月2日に講和条約が結ばれ国際的な終戦となったが、当時の日本の人口7000万人のうち戦没者は310万人でそのうち民間が80万人。軍人のなかで捕虜となり、終戦後、殺害されたのは38万人にのぼっている。全世界では、20億人の人口に対し8000万人が亡くなったとされている。多大な犠牲を払った大戦であった。戦後、戦犯を問う「極東軍事裁判」が1948年(昭和23年)11月に判決が行われ、A級戦犯とB級戦犯が裁かれ28名のうち2名は死亡、1名は免訴、25名が量刑を受け、うち東條英機や松井石根ら7名が死刑を宣告された。捕虜の問題として「モンテンルパの夜は更けて」にあるように、マニラ市ニュー・ビリビッド刑務所で戦犯として留置され、1951年、戦後6年目に処刑された14名の生命。1953年、キリノ大統領の恩赦で釈放された。日本もソ連軍にシベリア抑留された日本人の数は57万人とされ過酷な労働やが虐待などで58000人が死亡、473000人が帰還したとされるが、不明者が多く、正式な数がわからない。
植民地という言葉が重いがスペイン・ポルトガル・イギリス・フランス・オランダ・ロシア・ドイツ・イタリア・ベルギーなどがアメリカ大陸・南アメリカ大陸・アフリカ大陸などに進出した。日本も進出し、外地としてきた。【施政権は総督府など統治政権による】
台湾(日清戦争後1895年、下関条約により割譲)南樺太(日露戦争後1905年、ポーツマス条約により割譲、後に内地編入)
関東州(ポーツマス条約により租借地承継)朝鮮(1910年の日韓併合条約により大韓帝国の併合)
南洋群島【ミクロネシアなど】(第一次世界大戦後1922年、国際連盟規約により委任統治)
※満州国(1932-45)の独立国家は日本の準植民地とされる見方がある。
日清戦争(李氏朝鮮の内乱)、日露戦争(朝鮮半島と満州の権益)、満州国樹立、日中戦争【盧溝橋事件】など戦争の時代があった。
講和条約により領土が変遷している。日本は大東亜共栄圏を謳い戦争に手を染めていった。大東亜共同宣言には『相互協力・独立尊重』などの旨が明記されている。
ひとつの見方として日本は、アジアの盟主としてのヨーロッパ植民地からの解放とされているが、慎重にみなければならないセンシティブな内容である。統治下に置かれた民衆は本当に解放されたのか、それとも虐げられたのか。もうひとつ、外地での犠牲者についての考えはどうなのか。海外の戦没者は240万人あり 遺骨が見つからない人が110万人。
ここでは、終戦前後の日本をまとめていく。今上天皇は「日本のいたみ」として忘れることができない4日間として
沖縄慰霊の日 広島原爆の日 長崎原爆の日 終戦の日 をあげられている。
沖縄戦について 4月1日~6月23日(厳密には3月26日~9月7日) 持久戦を強いられた。人口49万人から15万人の県民、県外が7万人、20万人を超える尊い命が失われた。現在も、3000人が行方不明となっている。砦として、人権を踏みにじられた沖縄の人々。防衛召集により動員された日本軍史上初の14~16歳の学徒による少年兵部隊。戦争法によれば、一般国民が戦争に参加するのは考えられなかったが、兵力の減少で半ば強制的に志願兵として集めたのである。では、武器はあったのか。武器は手榴弾しかなく竹槍で訓練をしていた。もはや精神論で勝てる筈はない。特攻や「斬り込み」の玉砕で敵に突入して自爆する酷い戦術が強いられた。また、米兵に捕虜になるのは恥だとされ、自決するものも多くいた。一度に家族親族40人が死んだ例もある。米兵も、軍との対抗であれば捕虜が考えられるが、掃討作戦は、一般国民を殲滅する内容で、疑問が残る。牛島中将自決 6月23日が組織戦としての投降を意味するが、抵抗を続け実際は9月2日の調印頃まで続いていた。
1945年(昭和20年)7月26日のポツダム会談では、日本の戦後処理が扱われた。ソ連がアメリカに連合国軍として日本に宣戦布告したい旨、確認したとされている。
アメリカは憂慮した。連合国軍側は日本政府に対して「日本軍の無条件降伏などを求めるポツダム宣言」を要求した。日本側はこれを黙殺したが、メディアは「拒否」と報じた。最高戦争指導会議や閣議でも検討はされたが、陸軍は玉砕を提案。海軍はすでに停戦を提唱していた。沖縄戦の時、日本の海軍は全滅していて機能しなかった。しかし「国体」の無条件降伏は受け入れられない。アメリカは、拒否されたのは「想定済み」で原爆投下にむけてすすめていたが、急展開。1945年7月16日、人類史上初の原爆実験「トリニティ実験」が行われ実験データが入ってきたことにより詳細な遂行をすすめていく。
原爆の事。ドイツの物理学者アインシュタイン(1879 – 1955)はナチスがドイツを掌握した事でアメリカに亡命した。アインシュタインは、ウランは平和的利用限定されるものだとしていた。1939年、ハンガリー出身の物理学者シラードはナチス・ドイツが原爆開発することをおそれ、ルーズベルト大統領へ原子エネルギーの開発についての書簡を送りアインシュタインに署名を求めた《アインシュタイン=シラードの書簡》。「ドイツが原子エネルギーの開発に成功した」というのは取り違えであった。これ以降、アメリカがウラン研究の「マンハッタン計画」をすすめ主導したのはオッペンハイマー。1942年、研究所が創設される。1945年6月11日「フランクレポート」によるとドイツが原爆を開発していない確証が得られた事を知ると「後悔している」と語った。そして、ヒロシマ ナガサキへ。
原爆投下の候補地についてテニアン島から広島市までは2700kmの距離。
4月 原爆投下を研究する地域を選定した。この中には、京都も含まれていた。
7月 広島、小倉、新潟、長崎(京都を除き、長崎に変更)に投下命令。(26日)※ポツダム宣言拒否後、広島を最優先目標に決定。(31日)
8月 目標から新潟を除外。(1日)攻撃日を6日、投下目標を広島、小倉、長崎とする最終命令。(2日)
広島にウラニウム爆弾「リトル・ボーイ」原爆投下(6日)人類史上初の一般市民に対する核攻撃
長崎にプルトニウム爆弾「ファットマン」原爆投下(9日)人類史上2回目の一般市民に対する核攻撃で実戦で使用された最後の核兵器
広島は、捕虜収容所がなかった事、軍需工場があった事、これまで大規模な空襲がなかった事、平野が広がる地域で晴天が期待でき最大の効果が期待できた事などがあげられる。
長崎は、当初、第一目標であった小倉が視界不良であったため、直前(10時30分)に変更された。軍需工場があった事があげられる。
8月6日午前8時15分 テニアン島からエノラ・ゲイ「新型爆弾」リトルボーイは約43秒間落下した後、相生橋より東南の島病院付近高度約600mの上空で核分裂爆発を起こした。広島市35万人のうち20万人を被爆に陥れ命を奪う。日本を壊滅的な被害にし降伏させるためには、もう一発投下する必要があったとされている。つまり、2回予定されていた。
実は、8月8日ソ連が日ソ不可侵条約を破棄し参戦した。アメリカは焦った。火事場泥棒が邪魔になった。
8月9日午前11時2分市街中心部から北へ約3km、松山町の上空503mで炸裂し長崎市24万人のうち9万人を被爆に陥れ命を奪う。後になってわかった事だが、広島への原爆投下の話をきいた八幡製鉄所の社員が小倉上空へ煙幕装置に点火し、新型爆弾に警戒した。10時30分、小倉の計画を変更、長崎に向かい10時50分長崎上空に到達。雲間から一瞬、長崎市上空がみえた10時58分、高度9000mから投下された。
御前会議は8月10日に行われ聖断を仰ぎ「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に受諾するという回答をスイスに打診。14日にも会議が行われ、終戦の詔勅が発せられた。終戦宣言についてすすめられ玉音放送の録音盤をめぐって宮城(きゅうじょう)事件が軍部から起こり騒然となるが、宮内庁の機知巧妙な対応により予定通り玉音放送がされ、8月15日正午に終戦宣言となった。終戦宣言後もソ連は、千島列島 樺太、満州に侵攻してきた。講和条約調印までは、まだ終戦でない。千島列島の占守島(シムシュ島)の戦い【8月18日~21日】があり、武装解除後の異例の戦いで日本は最前線を守り停戦交渉に署名した。しかし、ソ連軍は北方四島(得撫、択捉、色丹、国後島)に上陸する。8月31日までに得撫島に上陸、占領。9月1日、択捉、国後島に上陸。9月5日までに択捉島・国後島・色丹島を占領。9月5日に歯舞諸島に上陸、占領。
9月2日 日本は、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリの船上で、連合国と降伏文書を締結した。これにより停戦。連合国側として連合国最高司令官とソ連を含む各国代表も署名を行い、国際的に停戦が確認された。既に8月22日に千島諸島の日本軍は戦闘停止していたが、連合国からの指令「一般命令第一号」で千島諸島の日本軍は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏すべきこととされた。ソ連は北海道の北半分を占領しようとしていた。9月27日には「マッカーサー・ライン」が規定され「納沙布岬と水晶島の中間」、歯舞群島近海の日本漁船の活動が禁止されたが「貝殻島は日本の海域」とされた。しかし、1948年(昭和23年)12月にマッカーサー・ラインが納沙布岬と貝殻島の中間に引き直され、貝殻島周辺海域もソ連の実効支配下に入った。1946年(昭和21年)1月29日、GHQの「指令第677号」により歯舞群島に対する日本の施政権が停止されると、2月20日にソ連政府が自国領編入を宣言。
日本とソ連は、日ソ共同宣言(1956年)10月19日に調印した。宣言には、さまざまな条項が取り決められた。日本の国連加盟もその時だった。「日ソ両国は引き続き平和条約の締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡す」とある。その後、歯舞群島と色丹島は返還されていない。
島国の日本は、北側に北方四島問題、西側に竹島問題、南側に尖閣諸島問題があり、緊張状態が続いている。