嵯峨天皇奉献「華道祭」いけばな嵯峨御流.【旧嵯峨御所 大本山 大覚寺】


嵯峨天皇奉献「華道祭」いけばな嵯峨御流.【旧嵯峨御所 大本山 大覚寺】1200年の歴史ある大沢池の桜ながし。
「観月の夕べ」といった催しの「龍頭鷁首舟」の遊覧、大沢池特設舞台、五大堂観月台での生演奏が行われる。
大覚寺旧嵯峨御所大覚寺門跡 御製「後世、花を生くるものは宜しく之を以て範とすべし」
嵯峨野に平安時代初期の嵯峨天皇(786-842)離宮。嵯峨天皇と親交のあつい空海が、弘仁2年(811)離宮内に五大明王を安置する持仏堂の五覚院を建てたのがはじまり。その後、貞観18年(876年)、皇女の淳和天皇皇后が離宮を寺に改め「大覚寺」とした。宮廷風の建築や皇室ゆかりの伽藍を配置する。勅使門(唐門)、御影堂、心経殿、御影堂の東に五大堂、西に宸殿、宸殿の北に正寝殿。南北朝時代(1272頃~1336-1392)には南朝「大覚寺統」の院御所としていた。「明徳の和約」により南北朝が統一された。
この日、気温は23℃まであがり、はじめて冷房が欲しくなった。上着はいらない。半袖はちょっと寒いかな。朝から照り付ける日差し。桜流しでしょう。大覚寺には、紅葉の時期には大沢池の散策で訪れている。何年か前から「華道祭」の日にうかがっているが嵯峨御流の華道は格別だ。嵯峨天皇が大沢池の「菊が島」で花を手折ったのがはじまりというが御所の天井の低い空間に豪華で雅な花を主張できしかも花器のバランスもよい。名神「吹田」出口でひどい渋滞、左側車線にいたため巻き込まれる。右車線、松原方面は何の問題もないのに。大阪万博の開催前日、ざわざわした気でいる。
唐門(勅使門) – 嘉永年間(1848年 – 1854年)再建。
宸殿(重要文化財) ‐ 後水尾天皇より下賜され、東福門院(後水尾天皇中宮)の女御御殿を移築。「宸」は「皇帝」の意。南正面の西側が「牡丹の間」(33畳)、東側が「柳松の間」(18畳)、奥の西側が「紅梅の間」(22畳)、東側が「鶴の間」(12畳)。襖絵「牡丹の間」の牡丹図と「紅梅の間」の紅梅図は狩野山楽の作。
心経前殿(御影堂) ‐ 伽藍の中心部、大正天皇の即位式に使用された饗応殿で、1925年(大正14年)に後宇多法皇600回忌を機に下賜され大覚寺へ移築。心経殿の拝所となり、その左右に嵯峨天皇、弘法大師(空海)、後宇多法皇、恒寂入道親王の像を安置。
宸殿前庭 – 一面に白砂が敷き詰められ、右近の橘と左近の梅。
安井堂(御霊殿) – 東山にあった安井門跡蓮華光院の御影堂を1871年(明治4年)に移築。後水尾天皇像を祀る。
五大堂本堂。天明年間(1781年 – 1789年)建立。当初は伽藍の中心部(御影堂前の現在、石舞台がある位置)にあったが、1925年(大正14年)御影堂が移築された際に現在の位置に建てられた。堂は写経道場として用いられており、東側の濡れ縁「観月台」から大沢池を望むことができる。本尊の五大明王像は霊宝館にある。
五社明神社 – 伊勢内宮、伊勢外宮、八幡社、春日社、住吉社の神を祀る。離宮嵯峨院の鎮守社で、空海が勧請した。
中央 – 不動明王 – 大日如来の教令輪身
東方 – 降三世明王 – 阿閦如来の教令輪身
南方 – 軍荼利明王 – 宝生如来の教令輪身
西方 – 大威徳明王 – 阿弥陀如来の教令輪身
北方 – 金剛夜叉明王(東密系) – 不空成就如来の教令輪身 または 烏枢沙摩明王(台密系)
閼伽堂 – 閼伽井は、嵯峨天皇の命で空海が建立した嵯峨院の持仏堂「五覚院」の閼伽井として掘られたもの。
プロフィール

- ☆PCPAL代表取締役 日本アコーディオン協会理事 FMはしもとパーソナリティー ピアノテクニシャン なにわシャンソンコンクール審査員 市ボランティアサークル連絡協議会副会長 TOPページへnishikunnのページ
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