Author: nishikunn

☆PCPAL代表取締役 日本アコーディオン協会理事 FMはしもとパーソナリティー  ピアノテクニシャン  なにわシャンソンコンクール審査員 市ボランティアサークル連絡協議会副会長 TOPページへnishikunnのページ

「どうやったらできるか」考えを変えていく


内村航平選手の言葉 10日前 新型コロナウィルスの陽性反応が出て衝撃が走ったと思う。それは「偽陽性」だった事で落ち着きを取り戻したが、動揺は隠せなかった。

日本、ロシア、中国、米国による体操の国際大会「Friendship and Solidarity competition」が8日、東京・国立代々木競技場で行われた。コロナ禍で入国制限が設けられて以降、五輪競技では国内に海外選手を招く初の大会。東京五輪実現へ、男子の内村航平(リンガーハット)は閉会式で国民の協力を求めた。合間に通訳の時間を交えた約5分半のスピーチ

「五輪ができないんじゃないかというのが、80%を超えていて残念。できないじゃなくて、どうやったらできるかを皆さんで考えて、そういう方向に考えを変えてもらえれば。これは非常に大変なことであると、承知の上で言っている。国民の皆さんとアスリートが同じ気持ちじゃないとできない。どうにかできるやり方は必ずある。できないと思わないでほしい。」

主催者の思い 現場にいる人の思い 来場者の思い が同じ気持ちになれるよう願う。内村選手は、演技も素晴らしいが、確たる信念を持っている。多くの支援者が賛同する事を願いたい。

実は、今日これと同じ思いになった。

私の所属する 市ボランティアサークル連絡協議会の会議だった。一応、私は副会長をおおせつかっている。
一年に一度の主催行事「ボランティア体験フェア2020」(2021年1月24日予定)が中止と決まった事は仕方ないと思ったが力が入らない。
何しろ、1日1000人が集まる一大イベントだから。役員をして15年になるが、ボランティア体験フェアの参加者が年々増加し実績をあげてきた。
ボランティアがあらゆるサービスを潤滑にし、共働する社会に貢献している事は明白。しかし今後、何か対策をしないとできないのは、わかっている。

ある文化祭の事、「コロナ禍」で、参加できたところと出来なかったところの明暗が分かれたというのだ。できない事は寂しいし、不平等ではないのか。悔しい気持ちがつのる。
コロナ禍で「次の年もできませんでした」にならないよう考えを変え努力を傾けていかなければならない・・・

まだまだやらなければならない事がたくさんあるし、考え抜く事は、大きな意味がある。
その智慧は、他のマネージメントなどに対応する力を身に着けることにつながるのでありがたい事である。

 

 


2020.11.26(木)13:00「おきがるタイム」vol.184


2020.11.26(木)13:00「マコルネのおきがるタイム」FM816
【ネットラジオの視聴方法がPC スマートフォン タブレット共通に】https://www.jcbasimul.com/radio/1302/

【予定曲】LOVE IS ALL  愛を聴かせて パリの空の下 サンフランシスコの6枚の枯葉 フーガ・イ・ミステリオ 落葉松 Autumn Leaves  旅愁 リンゴ村だより 落葉しぐれ 黒い落葉 ズンドコ節

【コラム】散歩道、あたりは少しづつ変化し 来年への冬支度をはじめています。

藤原定家 詠み「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮」


世界遺産「富岡製糸場」国宝にも


世界遺産「富岡製糸場」群馬県富岡市にある。木の骨組みにレンガを組み合わせた「木骨レンガ造り」は、珍しい。

長さが約140mある繰糸所に300釜の繰糸器が並ぶ、製糸工場としては世界最大規模。明治維新後、政府は、産業や科学技術の近代化の中で生糸の輸出を国の産業として進める。生産向上と、技術指導者を育成するため、洋式の繰糸器械を備えた官営の模範工場を建設。フランス人指導者ポール・ブリュナが明治4~5年(1871~1872年)建造し操業開始。繭から生糸を取る繰糸所で、女工が支えた。

平成17年7月、国の史跡に、平成26年(2014年)6月「世界遺産」に登録。12月に繰糸所、西置繭所、東置繭所の3棟が「国宝」となった。「フランスの器械製糸技術を導入した日本初の本格的製糸工場」「和洋技術を混交した工場建築の代表」、製糸・養蚕技術の発展への貢献などが評価された。

繰糸所(そうしじょ)は富岡製糸場の中で中心的な建物であり、梁間(長さ)140.4 m、桁行(幅)12.3 mの木骨煉瓦造。繰糸は手許を明るくする必要性があったことから、フランスから輸入した大きなガラス窓によって採光されている。この巨大な作業場にフランス式繰糸器。

東置繭所(ひがしおきまゆじょ)と西置繭所(にしおきまゆじょ)はいずれも長さ104.4 m、幅12.3 mの木骨煉瓦造りの2階建。2階が繭置き場に使われた。いずれも1872年竣工。開業当初は養蚕が主に春に行われたため、蚕の繭を蓄えるために建設、2棟で32トンの繭を収容できた。

蒸気釜所(じょうきかましょ。1872年竣工)は製糸場の動力を司り、一部は煮繭に使われた。1920年に動力が電化されると蒸気エンジンは使われなくなり、のちには煮繭所などに転用された。

首長館(しゅちょうかん。1873年竣工)ブリューナ館は、一家が滞在するために建設された木骨煉瓦造。1879年にブリューナが帰国すると、工女向けの教育施設に転用。

女工館(じょこうかん)は、首長館と同じく1873年に竣工した木骨煉瓦造、フランス人の教婦たちのためのもの。

検査人館(けんさにんかん)は、フランス人の男性技術指導者の宿舎として建てられた。外国人医師の宿舎になった。
これら3館はいずれもコロニアル様式の洋風建築。

それにしても、巨大な建物がいくつも並び、産業革命の象徴とも言われる 繊維産業を発展されたことは、日本の工業発展に大きく貢献した。
ご存じだろうか。トヨタ自動車も 日産自動車も 元は 繊維産業が業種で 現在の業種に転換したのだ。日産の織機が、ここに納められている。

和洋の建築方式が、先進の技術を駆使してできたものであった。300基の機械を格納できる長さを誇る。梁、柱に注目したい。


長野聖教主教会(1892年献堂)


長野聖教主教会(1892年献堂)

1892年(明治25年)カナダ人宣教師ジョン・ゲージ・ウォーラー(J.G.Waller)の創立。1898(明治31)年、ウォーラーを中心として建設され献堂。長野県内唯一最古の煉瓦造平屋建。本格的なゴシック様式。開口部のアーチが尖頭アーチ。側面はゴシック建築の「バッドレス」。出入り口の上部や側面の窓には、ステンドグラスがはめ込まれている。

ケルト十字という。市内のど真ん中に突然、タイムスリップした建物に驚く。隣には、帝国データバンクのビルがあるのだから。
ここでは、チェンバロのコンサートなども行われている。


チェコフェスティバル2020 10/31-11/1


チェコフェスティバル2020 10/31-11/1 チェコと日本の国交樹立100年 アルフォンス・ミュシャの生誕160年

ホテル・アゴーラリージェンシー大阪堺・ポルタス広場

飲食、雑貨、展示ブースが開かれます。ステージプログラムでは、パフォーマンス、ライブが行われます。

チェコ共和国 Czech Republic は、中央ヨーロッパ(中欧)の国の一つ。1993年を境に チェコ・スロヴァキアは、それぞれ独立した。
面積 日本の約5分の1 人口 1069万人 首都 プラハ 人口 130万人  ビール消費量(一人当)世界一 バドワイザー ビール (産地 チェスケ・ブジェヨビツェ) ピルスナー ビール (産地 ピルゼン) 音楽家 ドヴォルザーク スメタナ ヤナーチェク マーラー

構成 ボヘミア モラヴィア 14の世界遺産 プラハ歴史地区 チェスキー・クルムロフ など

何度か開催されています。2020東京イベントは中止、チェコフェスティバル2020in 関西として開催されます。
また「チェコウィークオンライン2020」はYouTubeプレミア公開にて配信されます。

https://www.youtube.com/CzechRepublic_JP

ドイツ、ポーランド、オーストリア、スロヴァキアに周囲を有するNATO EUの加盟国。西欧と東欧の要衝であり、現在、中欧と呼ばれている4国のひとつ。

ピアノ「ペトロフ」は、チェコで生産されている。ピアノでのライブも開催される。

チェコ料理をたしなみながら、様々なプログラムやステージ、ライブを楽しめる。ブースでは、たくさんの情報が満載。

私は、3回チェコを訪問しているのだが。再訪する将来のために、チェコの交通事情、世界遺産をブースで尋ね、貴重な情報を得た。


2020.11.12(木)13:00「おきがるタイム」vol.183


2020.11.12(木)13:00「マコルネのおきがるタイム」FM816
【ネットラジオの視聴方法がPC スマートフォン タブレット共通に】https://www.jcbasimul.com/radio/1302/

【予定曲】楓 巴里変わらぬパリ 恋はせつなく エル・チョクロ ノスタルヒア 大脱走マーチ ツイストNo.1  紅葉 星の界 白い花の咲く頃 しあわせの一番星 ありがたや節

【コラム】紅葉が山から北からおりてきました。湿度が下がり空気が乾燥しています。うがい、手洗い、手指消毒を忘れずに。
上高地の紅葉。河童橋にサルが毛繕い。黒姫高原童話館「童話の森ギャラリー」にて C.W.ニコル追悼展「森の祈り」

C.W.ニコルさん ウェールズ出身の日本人。ナチュラリスト。例えば、樹齢60年の木を切ったら、その後、山はどうなりますか。
禿山となり、土壌を支えきれなくなり山崩れが起きやすくなります。やがて、砂漠化します。元に戻すのに、60年かかる事を貴方は考えていますか?
ニコルさん自らが、荒れた森を手入れし整備「アファンの森」財団を設立。子どもたちには自然のエネルギーから元気をもらえるようにすべきだと、定期的に子どもたちをアファンの森へ招待。日本では、まだ浸透していない「ジビエ」についての見識を広めていった・・・

いわさきちひろの黒姫山荘アトリエ


野尻湖の伝説


野尻湖 伝説 ナウマンゾウ

長野県最北端に位置する信濃町にある自然湖 標高650m 南北2.5㎞ 東西3㎞ 深さ38m の湖沼。県内最大の諏訪湖に次いで大きいが、容積は野尻湖の方が深いため大きい。
約7万年前、黒姫山が噴火し溶岩流が下った。斑尾山の谷を堰き止め、野尻湖ができたと考えられている。野尻湖マラソン、ナウマンゾウ博物館などがある。
東側は、湖岸よりかなり離れた周遊道路。

不思議な事に、寒冷地にも関わらず、冬季に湖面が凍結しない。そのため、舟が出せワカサギ釣りが盛んである。諏訪湖では神事に「御神渡り」があるのだが、数年に一度となっており、温暖化の影響ではないかと指摘されているのだ。

1948年、ナウマンゾウの化石が発見され、世界的に知られた。日本の化石長鼻類研究の草分けであるナウマンに因んでナウマンゾウと呼ばれている。ナウマンゾウは、氷河時代や15,000年前まで生息していたと考えられ日本、アジアに分布しているゾウの種類。1962年から発掘調査が行われている。ちなみにナウマンゾウの化石は、日本だと東京都心など広域に発見されており、亜種かどうか研究が続けられている。湖西側にナウマンゾウ博物館があり展示されている。

湖の中、北側に琵琶島(宇賀神社)があり、舟、またはボートで辿り着ける。西側は、黒姫山 東側は 斑尾山に囲まれた野尻湖。

野尻湖は自然湖 (諏訪湖は丸い形だが)変化の富んだ形となっている。また、深さもまちまちで 棲みつく魚が豊富。

黒姫山が聳え立つ。

西側の湖畔 野尻湖ナウマンゾウ博物館。

野尻湖 琵琶島 湖の北西に浮かぶ。舟やボートで辿り着ける。

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野尻湖と黒姫山に因む伝説

戦国時代、小館城主、高梨摂津守政盛に黒姫という可愛らしく、賢い娘がいた。
ある日、政盛は家来を連れ東山で花見の宴を開いた。

同席していた黒姫の姿を見た大沼他の主は、自分に貰い受けたいと、
立派な侍に化け、政盛に懇願したが断られた。

そこで侍は、思い切って自分の素性を打ち明けた。
政盛は、大蛇に一人娘をやるわけにはいかないと、難題を持ちかけた。

その難題に、大蛇は傷つき動けなくなった。
政盛は死んだものと思い、約束を守らず城に戻った。

死ななかった大蛇は怒って、一族の四十八他の主と共に池の水を一度に押し流した。
箱山のお陰で城は流されずにすんだ。

しかし黒姫は、大蛇の恨みを受けながら生きていけないと、
信濃と越後の境にある池に身を投げて死んでしまった。
その後、この山を黒姫山というようになった。

中野祇園祭の日には、空が曇り雨が降るという。
この時、黒姫が雲に乗って、小館城に里帰りするといわれている。


戸隠高原「鏡池」 


戸隠高原「鏡池」 戸隠山と紅葉の名所

戸隠山(1904m)は信仰の山 一不動 二釈迦 三文殊 四普賢 五地蔵 六弥勒 七薬師 八観音 九勢至 十阿弥陀 と名が付いている。その先が尖る高妻山(2353m)だ。

蟻の塔渡、剣の刃渡など クサリ場で最大の難所とされる。

前回の戸隠高原、9月中旬のもの。まだ、夏山という感じ。10月中旬は、2000m級の山が紅葉をはじめる。

戸隠神社奥社入口駐車場から

「鏡池」からの戸隠連峰 カメラマンが20名ほど来てシャッターチャンスをみている。

「鏡池どんぐりハウス」レストハウス いい場所にある。周辺の道が狭いので県道36号線沿いの駐車場に停めて歩いてくる人もいる。

戸隠連峰をみるには、戸隠スキー場からの眺望がよい。ゲレンデの頂上は、怪無山(けなしやま)1549m
裏山(左側奥)は、瑪瑙山(めのうやま)1748m で飯縄山(1917m)の稜線上にあたる。

ゲレンデを登ってきたところから戸隠山(1904m)尖った山は高妻山(たかつまやま)2353m


如法寺 大悲閣観音堂 弘法大師


如法寺 大悲閣観音堂 弘法大師創建 中野市

清水寺と同じ懸崖造。本尊は木造不動明王立像で、脇侍に金剛童子、勢多阿童子

創建は807年(大同2年)、空海がこの地を訪れた際、自らが千手観音を彫り込み安置したのが始まり。826年(天長3年)、真如法親王の時代、七堂伽藍に三十六坊を構える寺院となった。12世紀頃の『今昔物語集』に登場し、薬蓮という沙弥の僧が阿弥陀経の功徳によって極楽往生を遂げたという説話がある。その後、一時衰退するが1412年(応永19年)領主の高梨規政が再興。1561年(永禄4年)川中島の戦いで堂宇が焼失。江戸時代、四代将軍徳川家綱が篤く帰依し堂宇などを再建。

大悲閣(観音堂) – 1836年(天保7年)に造営。格間には観音の彩色絵図が描かれている。堂内には木彫千手観音像が安置され、鎌倉時代作の阿弥陀像や大日如来像。他に弘法堂がある。

中野市は、中山晋平記念館がある。市内随一の東山公園にそびえる堂宇が「如法寺 大悲閣観音堂」東山公園からは、市内を一望できる。
それが「北信五岳」。戸隠山、飯縄山、黒姫山、妙高山、斑尾山の事。


三段紅葉「白馬」唐松岳、丸山、八方池


三段紅葉「白馬」唐松岳、丸山、八方池

前日、夕方から雪に変わり、初冠雪。天気予報では、特に雪の予報はなかったがそれは平地の話でなく、志賀高原、穂高、そして白馬連峰の事。
秋雨前線が、雪を降らせた。通常では低気圧が太平洋沿岸を発達しながら通過、寒気を引き込み風のぶつかるところで発生した雲が気温の低下で降雪する。
で、この時期以降に登る人は、軽アイゼンを持って行った方がよい。

3000m級の高山では、10月上旬に吹雪いたり降雪はあっても積雪になるかだったが、今回は積雪4㎝だったよう。冬が到来した。実際、白馬でも気温が7度に。はく息が白い。
全国的にも、11月下旬から12月上旬の気温になったところもあり、冬の寒さに驚いたのでは。

前日夕方、栂池へ入ったが底冷えがした。足元が冷える。それもそのはず。栂池の上が雪雲に覆われ初冠雪したのだから。夕焼けの白馬連峰白馬連峰がピンク色に染まる。芸術だ。

「道の駅」で待機し仮眠をとった。夜中3時に目覚めた。それが寒さだったのかも。黒菱ラインに乗るため林道をゆく。夜はちょっと怖い。道幅狭くシカが出そうな道。昼でも対向が大変。帰り、マイクロバスが側溝にタイヤが脱輪し、JAFを呼んでいるとの事だった。慎重な運転をしてほしい。実際、ツアーバスがここを通っている。大型同士の対向は待避所でないとキビシイ。段差に気をつけて。

黒菱ラインを使わない登山ルートが一般的。下の「八方駅」から八方ゴンドラリフト「アダム」とアルペンクワッドリフト、グラートクワッドリフトの3つで標高差1060mを40分で登り、高度を稼ぐことができる。リフトは、時期により稼働時間が異なる。秋時期「黒菱ライン」は、8時15分から16時40分まで。しかも今シーズン最終日だった。唐松岳への日帰り登山は微妙な状況。山荘に宿泊した方がよさそうだ。というのも、理論上は登り下りで7時間30分。日帰りで行けるような気がするが、それがそうでもない。まず、受付に並んできっぷを購入する。もちろん、開店してから。人気のコースなので、待ち時間が発生する。今回は、コロナ対策の同意書に記入する時間が別に必要。cocoaアプリをインストールしておくと短縮できたかも。窓口に並んだのが、8時5分(10分前)100人ほどが列をつくって待ち、リフトに乗ったのが8時38分だから20分ショートしている。リフト2本で20分くらいかかる。降り場「八方池山荘」に9時00分に到着。帰りは、16時40分に間に合うように。土日は人が多く、登山道が混むから。唐松岳に登る人は、今の時期だと八方池でゆっくりしていられないと思う。

強者はこう考える。ならば、リフトの稼働時間前に登山開始し黒菱から2本のリフト区間を自分の足で高度150m稼ぐ(1時間はかかる)。夜中、ヘッドランプつけて登る人や朝早く登る人がいる。リフト道は荒れた道ではないが急坂で体力の消耗を覚悟して。こうすることにより、唐松岳「日帰り」が可能にできる。帰りは、リフトで降りた方が。急坂は膝への負担が大きい。

【コース】八方池山荘(1830m)⇔ 唐松岳(2696m) 標準タイム 登り 240分 下り 210分
今回は、八方池山荘 ⇔ 丸山(2430m) 登り 200分 下り 130分

【登り】黒菱平(1680m)8時40分 リフト2本 八方池(1830m)9時00分
八方池山荘(1830m)9時00分 石神井ケルン(1974m)→ 八方ケルン(2035m)→ 八方池(2060m)10時10分 撮影など → 第3ケルン(2090m)→ 扇雪渓(2361m)11時40分 → 丸山(2430m)12時20分

【下り】丸山(2430m)12時50分 → 扇雪渓 13時7分 → 八方ケルン 14時7分 →石神井ケルン 14時21分 → 八方池山荘 15時00分 (※八方池に寄らず)
八方池山荘 → リフト2本 黒菱平 15時20分

まず、前日の栂池の上、白馬連峰の夕焼け

白馬からの朝焼け 雲海の上にうっとり 歓声があがった。老いも若きもカメラ、カメラ。

これが「三段紅葉」

八方池 思ったよりこじんまりとした小さい池。それが、鏡池で白馬連峰をうつしだす。

白馬を護る神、飯森神社奥社。

積雪は、4㎝ほどだったが、早朝、木道の一部は凍結していた。軽アイゼンをすすめる理由がここにある。昼に雪は一部とけていた。

扇雪渓(おうぎせっけい)もうひと頑張り。見上げると高度差があるが、意外とすんなり上まで行ける。その先が、大変だった。

丸山へ到達。今回のミッション完了。しかし、あと1時間早ければ、唐松岳登りたかったな。夏時間ならリフトが6時15分スタートだから可能。
頂上までは、ここから標高差260mある。ここまで600m登ってきた。

今回のメイン、不帰の嶮(かえらずのけん)Ⅱ峰(北峰、南峰)を見たかった。日本三大キレットの一つ。猫耳のよう。右側の切れ落ちは「天狗の大下り」

白馬五竜方面 やはり冠雪した白馬連峰がいい。

唐松岳方面 またにしよう。雷鳥にも逢えるかな。ハイマツとナナカマドがたくさん生えているので、きっと森の中にいる。


錦秋の「志賀高原」


錦秋の「志賀高原」

昨年は初秋に「四十八池めぐり」で志賀山に登り大沼池を俯瞰した。今回は、錦秋の志賀高原、できれば大沼池の紅葉を。

志賀高原は、上信越国立公園で指定されている広大な地域で志賀高原、奥志賀高原に分けられる。渋温泉、草津温泉、野沢温泉の一部も入る。横手山、志賀山、焼額山などの1500m~2000mの山に囲まれ 上信越特有の植生が独特の地形を作り出している。また、雪が深いので低木が多い。いわゆる見る紅葉ではなく、触れる紅葉。カエデ、ブナ、コナラなどの赤や黄色の濃い色が映し出され落葉を踏みしめ秋の終わりをしみじみ感じた。この日は、朝から霧雨、気温は8℃。蓮池は神秘的だった。紅葉は最盛期を迎えていた。国道292号線沿いの旭山(1500m)の色鮮やかな紅葉には見惚れた。晴れてくれればよかったが、まあこれも紅葉を見るのにちょうどよい。

一足はやく冬支度。そういえば、りんご畑をたくさん見かけた。今年は無事に収穫できますように。

大沼池の伝説 大沼池は、酸性度が高く魚が棲んでいない。カササギは水辺にいた。湖面が濃い水色をたたえている。天候、角度により様々な色に変化する不思議な池。黒姫の物語がある・・・

これが、昨年の大沼池。志賀山から9月中旬。左側の池尻から中央、レストハウス「エメラルド大沼」や、島の鼻のような大蛇神社を通る。
池尻から大蛇神社の鳥居が遠くながらみえる。

志賀高原自然保護センター(建物内に長野オリンピック・パラリンピック記念館があり、聖火リレーのトーチや金・銀・銅のメダル等を展示。)に入口にある標示板。
隣に山の駅「志賀高原」

大沼池(1694m)へは、いくつかのルートがあるが、今回は「清水公園」(1550m)から往復する。

標高1500mなのに、白駒池のような2000mにあるようなコケが植生している。

滝がある。静かな森に絶えない瀑音。

ほら、人がいるでしょう。声をかけられた女性。沼尻やエメラルドセンターでも出逢わず・・・

池尻に着いたが、ほとんど何も見えない。曇っていて小雨が時々ぱらつく。

レストハウス エメラルド大沼

曇って何にも見えない。風が強いというわけではないのに、湖面が波立っているのはなぜ?もしや大蛇がいるのでは。
弁財天 大蛇神社の祠と鳥居へと。

いつごろ創建されたか不明だが、木の根に祠。

幻想的な風景。

池尻に戻ってきた。天気が回復すると こんなにも湖面の色が違う。

大沼池を散策。片道5㎞ほど。池尻から神社までを含む。四十八池めぐりのコース。落葉をふみしめて。それにしても人があまりいない。
蓮池あたりのビジターセンターはけっこう車が停まっていたのに。しかし、今日が最終日で、料理もカフェのみらしい。冬支度かな。

片道5㎞ほど往復10㎞よく歩けた。大沼池にある弁財天、大蛇神社の鳥居は神秘的だった。そんな事より、不思議な事が。
ほとんど人と逢う事がなかったが、後ろから女性が歩いていた。トレッキングスタイルだ。30代くらいの、動植物の研究をされているのかな。アクティブでさわやかな感じ。こちらは、写真撮りながらなのでゆっくり目。途中、左側に滝が見えたあたり、女性が私を追い越した。「こんにちは」と声がしたので、こちらも返した。その後、先に行かれたのだが。池を周遊する(半周)コースのどこにも女性の姿はなかった。レストハウスでは、2人の男性と1組の夫婦とだけ。早足で進んでいる感じはなかったのだが。

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大沼池に棲む大蛇は志賀高原の守り神でしたが、嫁はいませんでした。

ある春、いつものように見るからに立派な若者に姿を変えた大蛇は中野東山の花見に詣で、
一人のとても美しい女性と出会いました。この女性は時の中野の最高権力者である、
小館城の殿様高梨摂津の守政盛の娘、黒姫でした。

二人は互いに惹かれあい、恋をしました。

しばらくの交際の後、若者は
「私は大沼池の主で、志賀高原の守り神の大蛇です。私にあなたの娘の黒姫を下さい。」
と願い出ましたが、

殿様は
「人間でもないものにどうして娘をやれるものか」
と言下に断りました。

しかし若者はあきらめず毎日毎日城を訪れお願いしました。

根負けしたのか、殿様は
「わしの乗った馬の後をついて城の周りを七周できたら姫をやろう」
という条件を出しました。

若者は喜んでこれをのみましたが、これは罠でした。

殿様は城の周りに刀を逆さにして植え、その上で大蛇を走らせ、殺そうとしたのでした。

その日がきて若者は殿様の後をついて走り出しましたが、
殿様は馬の名手、追いつけなくなった若者は大蛇の姿に戻り後を追ったからたまりません。

大蛇の体は逆植えの刀に裂かれ、傷つき血は流れ、恐ろしいありさまになりながらも、
約束どおり七周まわりました。

殿様の計略どおり大蛇は倒れ、起き上がってきませんでした。

しかし、やがて息を吹き返し起き上がってあたりを見回した時、
誰もいないのに気づいた大蛇は、殿様が約束を破ったのを知りました。

怒りに震え志賀高原に戻った大蛇は、一族郎党の手を借りて雨雲を呼び、
暴風雨を起こし、さらに志賀高原中の池を決壊させて大水で小館城を流そうとしました。

中野の村に大洪水が起こり、人も動物も飲み込まれ、
田畑は流され中野一体は壊滅状態になったのでした。

中野の東山が楯になって濁流から難を逃れた小館城から、
すっかり流された城下をみて悲しんだ黒姫は、事態を収束しようと決意し、
ひとり大沼池に身を投げました。

それを知った大蛇はそれまでおこしていた雲を散らし、
洪水を止め大沼池に戻っていったのでした。

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毎年八月に大蛇祭りが行われている。


「中山晋平記念館」童謡・流行歌・新民謡


「中山晋平記念館」 長野県中野市 童謡・流行歌・新民謡の作曲 1770曲

志賀高原で散策することになり、午前中から昼過ぎまで。しかし、冷たい雨で気温は8℃。昼すぎに雨があがった。
今日は、中野市に滞在することに。気になっていた「中山晋平記念館」を訪れる。

時報とともに、中山晋平作曲の歌が鐘のメロディーとなり流れる。何ともウェルカムな。記念館の展示作品については【撮影禁止】

まず、22分間のビデオ鑑賞。中山晋平1887年(明治20年)3月22日 – 1952年(昭和27年)12月30日)の人生を知る。その後、展示作品をみてゆく。展示館は円形になっていて、グランドピアノ、オルガン、蓄音機がある。資料は、代表作品の楽譜、自筆譜面、レコードなど。別室では、オルゴールで作品を聴いたりでき、白いピアノが展示してあった。また、歴史年表や作品一覧を網羅していて驚いた。

中山晋平は、父を幼少の頃に亡くし、長男として母を手伝い、一旦は勉強を諦めた。その後、音楽の勉強を志望し藝大に入学し、卒業とともに師範となった。島村抱月、北原白秋、野口雨情、西条八十から依頼され、名物コンビとなった。芸術座の松井須磨子の歌での「カチューシャの唄」は、中山晋平の名を知らしめた出世作。校歌、市歌なども手掛け「波浮の港」「砂山」「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」「てるてる坊主」「あの町この町」「東京行進曲」「シャボン玉」「証城寺のたぬきばやし」など多くの作品が親しまれている。

信州中野市の豊かな自然。ここからあの旋律が生まれた。