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興亜観音 不戦の誓い 


熱海市 伊豆山にある「興亜観音」風光明媚な海岸線。
入口から急峻な坂道を行くと「興亜観音」の駐車場が。そこから、さらに急な坂道を登る。

興亜観音 FBページ https://www.facebook.com/kouakannon/

この響き 戦後70年目に愛知県西尾市三ヶ根山「殉国七士廟」(じゅんこくななしびょう)を訪れ、真実を知りたいと思った。生き証人に 率直な吐露を聞きたい。そう思っていたところ 機会がめぐった。「殉国七士廟」の記事はこちら

東京裁判で 英霊となった七士 それ以外にも処刑され命を絶たれた
(七士を含む)英霊1068の魂は 何所へ。

東條英機(首相・陸軍大将)土肥原賢二(陸軍大将)板垣征四郎(陸軍大将)
木村兵太郎(陸軍大将)松井石根(陸軍大将)武藤章(陸軍中将)
文官の広田弘毅(首相)の七名 ※「殉国七士廟」には 遺骨の一部がおさめられている。

松井石根(まついいわね)は、支那事変(1937年 昭和12年)を案じ 興亜観音をたてることを発願した。中国からの土と日本の土をあわせ「怨親平等」にそって弔慰、供養するために建立された。南京事件は部下が起こした。が、松井は責任をとって処刑された。

観音像がみえてきた。艶やか。長さは3mほどあると思われる。合掌し微笑みをたやさない。平和を願うそのお姿に感動。国を衛るために尊い犠牲となった 英霊「七士」を含む1068柱 全戦没者(日本だけでない)「怨親平等」で弔慰 供養する。宗派を持たず 独立した 礼拝山「興亜観音」。住職をあずかる伊丹氏の人生は 波乱そのものであった。

終戦後の 東京裁判で 七士が処刑されたのは 現、平成天皇の誕生日の12月23日。GHQの屈辱的な施策があった。日本では、死人はすべてが仏さんになり供養されるとある。また「七士の遺族の気持ち」がある。GHQは、遺骨の保存を認めなかった。火葬場長が奇跡的に七士の遺骨を持ち出す事に成功し、当時の住職、伊丹忍礼師に相談があり 日本国の重要さを感得し快諾された。(GHQに秘匿とし)時期が来るまで10年の歳月を要する。時代が変わり、ようやく明らかにされた真実だが、素直に受け入れられなかった。圧力により興亜観音が爆破される事件があり、生命の危険にもさらされた。この観音様は、これまでもずっと見守ってくださったという。

曲解された歴史の捏造、自虐史観、無関心。現在の情勢、この国はどうなってしまうのだろう。

現在の住職、伊丹妙浄氏は「恒久平和」を希求する活動を精力的になさっている。
朝香宮殿下御手植の「菩提樹の実」を授かった。「菩提樹」は大きな意味を持つ・・・

慰霊碑 爆破事件で一部破損したもの 修復された。観音様の御加護があったとされる。

伊豆山から 初島 大島をのぞむ 風光明媚なところ。


終戦72年「玉音放送」を考える


8月6日「広島原爆の日」9日「長崎原爆の日」15日「終戦記念日」。沖縄は5月15日(復帰記念日)と6月23日(終戦記念日)。

終戦は玉音放送において行われた。正午に直立不動最敬礼のまま この放送を聴いて終戦を迎えたのだ。「玉音放送」は「天皇陛下のおことばのこと」終戦の詔書。「ポツダム宣言の受託」のことであるが敗戦や降伏という言葉を用いていない。「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」戦争に立ち向かう国民に対して空襲により焼夷弾の被弾、低空飛行による機銃掃射、原爆の投下。このままでは 日本民族滅亡に瀕するおそれを示唆し、終戦を決定したとされる。

「平成の玉音放送」は、東日本大震災に関する天皇陛下のおことば。

2011年(平成23年)3月16日午後4時35分に放送、天皇自らによるビデオ映像を用いて国民向けに発せられた。

ところで「終戦」とは何を意味するのだろう。日本は「敗戦」から学び、平和憲法を制定し 象徴天皇 主権在民 民主主義法治国家の道を歩んでいる。そして 経済大国となり、ODAで世界でも役割を果たしてきている。

戦後教育について。小学校の自由研究で「先祖」のお話を聞くと 必ず戦争 軍隊の話が出てくる。生々しい話。徴兵があり、入隊し訓練があった。祖父は、召集があり陸軍通信兵として モールス信号を利用 駐屯地 八王子 広島 などに赴いたという。
科学者、嫡男や、視力など健康上の問題のあるものは召集はかからなかった。恩給 二階級特進 陸軍通信兵 海軍将校 軍曹 陸軍少佐 専門用語がたくさんでてくる。

小学校 中学校の社会の試験に 戦後の項目はほとんどない。教科書に戦後の項目は数ページほど。
高校で 社会科の選択科目 現代社会1年次 世界史2年次 地理、または倫理社会3年次を選択すると日本史を習わないことになる。中学校では 教諭が教科書でなくプリントで平和学習を実施、印象に残っている。日本史の教科書も閲覧したが 戦後の範囲が少ない。近代だから 詳細も明確なはずだが。

大人になって史跡などをまわり 書物を読むことにより判断する知識が入ってくる。
現在 憲法を変えず解釈を変え 立法化することで 対応していく方針というのがみえている。
かつて戦前から戦中にかけても 解釈を変え法制化され軍隊を制止できず突入していったのだ。

現在の憲法改正について、国会の3分の2以上の賛成により履行できるとあるが なかなか難しいものだ。戦後60年あまりを経ても ほとんど議論にならなかった。今年 閣議決定により 解釈が変わり 将来は 条件設定のもと(相手側が攻撃でなくても 攻撃に相当すると判断されれば)自衛のために 武力を行使できるようになるという。徴兵制はないので 自衛隊が行動するという。

日本は間違いなく変わろうとしている。どのように変わるのか。
正しいことは正しいといえる世の中になっていることを切に望むものである。人と人とはもっとコミュニケーションをするべきだと私は思う。

「玉音放送版」 港区愛宕の「NHK博物館」に所蔵されている。天皇の声が事前に吹きこまれ、極秘に放送局に持ち込まれたもの。しかし 玉音放送を阻止しようとクーデターを起こした「宮城事件」首相の家も焼き討ちにあい、中将は切腹。海軍と陸軍は、会議でも考えが違い、終戦までもつれた。戦争映画「海ゆかば」でうかがい知ることができる。
詳細:http://nishikunn.net/nishikunn_wp/?p=6929


ちひろ美術館『トットちゃん広場の電車「一周年記念」』


ちひろ美術館『トットちゃん広場の電車「一周年記念」』安曇野の空は高く広く美しい。ここに電車がおさまる光景は、子どもたちの夢を育て大人の癒され場所として、ずっと残っていくだろう。

2016年7月23日 この日は ちひろ美術館にとって 大きなメモリアルとなった。
館長の黒柳徹子さんはベストセラー「窓際のトットちゃん」の著作で知られる。世界じゅうの言語に翻訳されている。挿絵に岩崎ちひろの絵がある。「徹子の部屋」の放送番組は 40年以上にわたる不動の地位を獲得。国連ユニセフ親善大使。司会者・女優と幅広い活躍によりその名を世界に知られている。この度、山田洋次監督らとのコラボレーションで トットちゃん広場に電車がOPENした。

トットちゃん広場の電車は 五十年以上使われた長野鉄道の車両を移動、リニューアルされた。一両目は 絵本図書館。トットちゃんは電車の中の教室で勉強をした。ほんとうの話。当時の様子を細かに再現している。

広大な田園がひろがる安曇野の空 ここにちひろ美術館が。東京 練馬にも美術館がある。

絵本美術館が併設 世界の絵本がここに集まる。

子どもたちが 楽器で遊ぶ姿

ブルーサルビアが一面に咲く夏

この日は トットちゃん広場 OPENの一周年記念の日にあたり イベントが開催された。

トットちゃん広場の電車

ちひろは、童話作家として知られているが「子どもの笑顔がいつもあふれる世界に 平和を願う」メッセージが込められている。

私は 幸運にも ちひろの絵の真髄を知る出来事に出逢っている。もう10年くらい前になるかな。
平和を伝える講演会に ちひろの絵のスライドショーが投影されることになり その技術を担当したことがあった。
投影での色彩表現のデモにどうしても納得できず、練馬の美術館 そして安曇野の美術館を訪れた。ちひろの水彩画の濃淡の世界に驚嘆した。
講演会では表わす事が出来たと思う。講演会の先生と何度かご一緒させていただきましたが「貴方の投影の色はとても綺麗ね」と言っていただけ ほっとした。

「戦火の中の子どもたち」の「シクラメン」の赤
「わらびを持つ少女」の黄 は特別だと思っている。

今回 美術館で 大判のポスターを購入した。これが 私の一番のお気に入り。
「わらびを持つ少女」のまなざしをみてほしい。その目は しっかりと未来をみすえ平和を願っている・・・


ハル・ノート(Hull note)『最後通牒』


本当に 怖い事なんだけど 北朝鮮の威嚇行為は 続くと思われる。

日本から手を出すことは できない。憲法があるので。自衛隊が 日本 米国 韓国の 合同訓練はしていても ただちに実戦に配備されることはない。

恐れているのは 日本海へのミサイル射撃で 米軍に攻撃が加わったときである。日米安保の関連で 自衛隊が出動するかもしれない。

これまでは 自衛隊は 災害などの救助に 大きな力を果たしていたが その任務は 減ってしまうだろう。また 最近 志願による 自衛隊への入隊は 少しづつだが 増えているという。通信制御の任務でも入隊ができるようになっている。これも 兵力のひとつ。

戦争をするには 国家元首が一方的に行うのでなく、基本的には政府や国会などの承認などが必要である。ただ 緊急に奇襲を受けた時 それを防御する事や一時的な反撃を行うのは あり得ると思う。奇襲を受けたのであれば 世論としては 「受けた喧嘩は 買ってやる」となり 戦力を持たない程度にまで攻撃し降伏させる というのは やれる。

しかしながら 兵器の種類によっては 最新兵器を使用した 全面戦争にもなりかねない。もちろん 一般市民 在留の方の安全をどう確保するかの問題もあり 簡単ではない。

威嚇する 挑発するというのは そういう段階である。
北朝鮮からすれば アメリカが 撃ってきたとすれば ロシアや中国が 味方してくれるという選択肢を引き出そうとしているのだ。

アメリカは 逆に 北朝鮮が 撃ってくれば 徹底的にやろうと思っているはずだ。その時 ロシアや中国も 北朝鮮を批判するだろうから。

実は 70年も前に ハル・ノートという議事があったようだ。
教科書では習えない 日本 近代史 国家をゆるがす 重要な事項。

日米交渉末期の1941年11月26日に、アメリカ国務長官ハルが、日本側が提示した「乙案」を拒否後に、アメリカ側の提案として提示したもの。日露戦争以降に東アジアで築いた全てを放棄するとの内容に、日本側では今なお「(事実上の)最後通牒であった」と解釈されている。
外務大臣、東郷茂徳や、昭和天皇もそれを認めている。

どの程度 関わっていたのかは 定かではない。この時 すでに 日本軍は 真珠湾近くに駐留していたとされる。この 機密文書が見つかったことにより 歴史認識の一幕にこれが関係すると思う。

ハル・ノート(Hull note)

無条件降伏か 戦争をするかの 最後通告をせしめたり これが 真珠湾攻撃の引き金となったのは確実だろう。アメリカは 自分から戦争をしかけをしないで させる方向に持っていけば 世論は戦争を肯定するであろう選択なのである。

太平洋戦争開戦直前の日米交渉において、1941年(昭和16年)11月26日(日本時間11月27日にアメリカ側から日本側に提示された交渉文書。アメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前からこのように呼ばれている。正式には合衆国及日本国間協定ノ基礎概略(Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)と称するもの。
冒頭に「厳秘 一時的且拘束力ナシ」(Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment)という但し書きがあり、アメリカ政府の正式な提案ではなく、ハルの「覚書」という側面がある。アメリカでは「ハル・ノート」ではなく、1941年11月26日アメリカ提案、あるいは「”Ten Points”」と呼ばれている。

 


人間魚雷「回天」記念館 


山口県防府市に演奏旅行に出かけた。現地の人とやりとりしている。私の担当している(インターネットラジオに対応)「昭和歌謡の番組」戦争関連の資料を取材しているが、「回天記念館」を訪問した。

「人間魚雷回天」という映画があった。「回天」というのは・・・魚雷の特攻部隊である。全国に4か所 山口県 大津島 光 平生 大分県 日出町大神 に基地があった。2000名近くが訓練を受け 145名が犠牲になった。平均年齢 21歳と 今後を担う若者が特効の命令を受けたことは 本当に悲しいことである。

爆薬が1.5トン 戦艦を一発で駆逐する破壊力 通常0.3トン 全長 14m 直径 1m

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この1mほどの中に入り操縦する。これが新型の特攻兵器であった。

特攻の募集に関して。
志願兵に対し 特攻兵器であることを知らせなかった。土浦海軍航空隊の予科練習生の場合、応募者2千余名から、身体健康で意志強固な者、攻撃精神旺盛で責任感の強い者、家庭的に後顧の憂いのない者(一人っ子、長男でない者)を基準に100名を選抜。「生還の望みはない」と説明されたのだ。

「特殊兵器(回天)は挺身肉薄一撃必殺を期するものにしてその性能上特に危険を伴うもの」(挺身・・自分の身を投げ出して事に当たること)。「選抜せられたる者はおおむね三月及至六月間別に定められたる部隊において教育訓練を受けたる上直に第一線に進出する予定なり」。(当時回天作戦がまだ軍機密事項の段階であったため、敵への情報流出を防ぐ必要から、兵器に関する具体的な内容は一切記述していない。)実際には3か月~6か月でなく およそ100時間程度の教育により 出来るものから選ばれ 戦場にいったとされる。

山口県 周南市 (旧徳山市)にある回天記念館のこと。
徳山駅 からすぐ 徳山港から 大津島へ 高速船で18分 船のデッキから見る景色は 工業地帯の煙突やタンカー コンビナートなどと対照的に無人島 など島が多数ある。美しい島。一方 戦中には 基地や要塞がつくられた。 この大津島もまた 特攻の島として忘れてはならない.。人間魚雷「回天」の訓練が行われた。徳山港にあるポスター 「回天」の模型がある

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大津島から高速船で約18分 客船とフェリーとがある。 DSCN9309_640

回天の島 大津島へ 瀬戸内にうかぶ 無数の島 無人島も多い 基地や要塞がつくられた島があった。

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大津島 に着いた。回天の島とある。

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小高い丘にある 記念館 。気持ちが引き締まった。

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魚雷 回天の機体。厚みは少ない。潜望鏡がついている。操縦席はあまりにも狭い。

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挺身突撃 七生報国 など の自筆。どんな気持ちで特攻へ行ったのだろう。想像を絶する。

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壕 隊道がある。天井も高い ここで 重要な作戦会議を行った。

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隊道を超えると 訓練場がある。

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ここが訓練場。現在は魚釣り場所として 訪れる人が多い。

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「パリ同時多発テロ」129名以上犠牲に 2015.11.13


「パリ同時多発テロ」129名以上犠牲に 2015.11.13(現地時間)

paris attacks :Le Bataclan theatre and other institution killed at least 129 people.
Paris attacks  フランス パリ Paris CET 21:20  November 13 Friday (日本時間 JST 2015/11/14 5:20)7か所で爆発があった。劇場「バタクラン」では 。サッカーのフランスとドイツの親善試合 オランド大統領も観覧されていた中で 複数の爆発があった。ISISとは。今までにない武装集団 プロであるという事。イスラム教の一部の集団。政治に不満を持つ者が 志願兵となり テロに加わる。やり方は 止めなければならないが シャルリー・エブド社は、1月におきた襲撃事件に対し イスラム教を風刺したことにより 反発をつよめたのか。

https://en.wikipedia.org/wiki/November_2015_Paris_attacks

現地時間(CET)2015年11月13日午後9時ころ、パリ郊外サン=ドニの多目的スタジアム・スタッド・ド・フランスで男子サッカーの国際親善試合・フランス対ドイツ戦が行われており、フランスのオランド大統領・ドイツのシュタインマイアー外務大臣も観戦していた。この試合会場の入り口付近や近隣のファストフード店で爆弾とみられる爆発音が3回響き、容疑者とみられる人物が自爆テロにより4人死亡、1人が巻き込まれて死亡。
その後、午後9時30分ころより、パリ中心部である10区と11区の料理店やバーなど4か所の飲食店で発砲し、多くの死者。その後、犯人らはアメリカのロックバンドのイーグルス・オブ・デス・メタルのコンサートが行われていた劇場「バタクラン」を襲撃して、劇場で観客に向けて銃を乱射した後、観客を人質として立てこもったが、14日未明に特殊部隊が突入して、犯人の2人が自爆により死亡、3人が射殺されたが、89人が死亡、多数の負傷者が出た。

その直後 フランスは 非常事態宣言を3ヶ月間とし 発令した。実質の戦争状態とし、シリア空爆を行っている。以前 イギリスでテロ(2005年 56人が死亡)が起きたことも嘆かわしい。
また、スペインの列車爆破事件では 200人以上の死傷者が出て シリアの空爆をスペイン政府が停止した。

移民の中で貧しい難民が暮らすフランスでは 700名以上にのぼる志願兵が ISに戻り戦闘を準備しているというから 根が深い。貧しく 支援を受けられなく あるいは 政策に反対している者として 何かのかたちで行動を起こすのはわからないでもないがテロを起こすというのは 過激である。

日本でも 最近 デモに参加する 主婦がいるようだ。心のうちに他の事で不満がたまっているのではありませんか。・・・ 煽られて 参加しているという見方もあるし マスコミもそれを利用しようとしているふしがある。

自分を見失わないでほしい。それは 卑怯だ、建前だろ と言うかもしれない。
しかし 軋轢を繰り返したところで 必ず私恨がのこり 報復が起こるのは 歴史をみてわかる通り。
だから 歴史は繰り返す そんな単純なもので片付けないでほしい。

ならば 抑止力を持つ 軍備を持つ者 武器を持つ者が 強くて当たり前になれば 力のないものは屈服するしかない。

シリア空爆 900名が犠牲に。私たちは 情報を平に受け取っているとは思えないのである。aerial bombing

あの 「戦場カメラマン」の 渡辺陽一さんの講演会では、シリアの現状をもっと知ってほしい事を話されていました、報道には上がらないが 生物兵器や 毒ガス 地雷など 兵器で苦しめられている一般の民がいる・・・

https://twitter.com/search?src=typd&q=Bataclan

https://www.facebook.com/lebataclan/?fref=ts

 

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アメリカ「広島訪問」の意味


今日は 歴史的快挙の日 ついにこの日が来た。戦後 71年で ようやくアメリカが 日本に歩みよった。外交努力といっても かつての日本政府は 廣島訪問を強くすすめてきたのか。

強調外交してきた アメリカ首脳 国務長官 の面々。 今までは 柔和どころか 強硬外交だったように思える。ベイカー オルブライト パウエル ライス クリントン ケリー ・・・時代が変わってきた。  2大 大国 ロシアへのけん制 東アジア 中東情勢  90年代  一時期 兵器を縮小できた。が、他国の 軍事費 増強は懸念材料。また テロリズムに対抗するためにも 最低限の抑止力を持つことが 国際的にも認知されている・・・

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さて、オバマ大統領は 苦労しながらも道を開き 弁護士になり 州議会議員 合衆国上院議員(民主党)を経て、多人種国家のアメリカで 建国以来史上初 アフリカ系人種からの大統領となった。なるべくしてなった 大統領。彼は 人種差別の事をよく知っています。

私も そういえば 経験したかな。ウィーンにいたことがある。ザルツブルクでアコーディオンを演奏していた。そうすると 親しく 声をかけてきた人がいた。見るからにアジア系で イスラム教でなく仏教徒に見えた。白い制服を着ていた。ホテルでベッドメイクをしている。ベトナムから出稼ぎで来ている。英語でやりとりした。人懐っこいが 彼は、たかりでもなんでもない。
ホワイトカラーの仕事には就けないんだろうか・・・彼の弟が新宿にいるんだと。その後、彼から手書きの封書が送られてきたのを覚えている・・・

ここで問われるのは 未来の事 それとも 過去の事。
廣島の事を考えると 日本は世界で唯一の被爆国として できる事を実践していく事が大切。たった一発で 26万人もの命が奪われた。史上最強の残虐なる兵器だった。
平和が築かれている事を重く受け止め 誇りと自覚を持ち 世界にアピールしていく。

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終戦 ポツダム宣言受諾 の頃を思い出しておきたい。
昭和17年のミッドウェー海戦以降 日本の状況が暗転した。テニアン基地から 米軍のB29 戦闘機が本土に空襲 給油なしで帰還できる(航続距離 8000kmとも言われている)事から 空襲が増え 3月に東京 大阪 名古屋空襲が。日本は海に囲まれている。陸軍は誇りを持っていたが 戦線は海軍がほとんどであった。日本の軍会議は 海軍が主で 陸軍が口出しできる状態ではなかった。4月 沖縄の地上戦に対して 停戦できなかった。悲惨な沖縄戦 沖縄の人口の4分の1が犠牲となった。連合国軍はあくまで無条件降伏にこだわった。5月にドイツが降伏してから 戦線はさらに酷い状態に。6月には 東京 大阪 名古屋等 空襲があり 本土決戦の様相をみせていた。同盟国はすでに降伏し 日本だけが連合国軍側と闘っていた。7月下旬には ポツダム宣言受諾をつきつけられる。この時に 無条件降伏を受けいれる事ができなかった。陸軍が反対されたとされる。(映画 「日本の一番長い日」)

つまるところ 無条件降伏を要求する連合国軍 ソ連 中国 ドイツ アメリカ の会議で 共同統治案が出ていた。中国は 4国協議の時に 四国統治を提案してきた。そして、最もアメリカが恐れていたのは ソ連が参戦することだ。満州を占領し 北海道へ侵攻する勢いが強い。

アメリカは、一日でも早く 降伏を受け入れさせるために原爆を使ったという。戦線が長引けば 他の都市も投下されていたかもしれない。8月12日前後には ポツダム宣言を受諾していたが 終戦宣言は8月15日となる。終戦後も ソ連は千島列島等 侵攻を続けたのだ。日本が、分割統治にならずに済んだのは奇蹟的である。ウィリアム・ヴォーリズの影の力があったとされている・・・(これは 日本の分割統治案)

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周知のとおり 世界には 分割統治により 悲劇を生んだ国がある。分断線により 往来きができなくなり また 軍事境界線が存在するため 銃撃等 トラブルがおきていた。朝鮮半島(北朝鮮 韓国) ベトナム(1976年統一) ドイツ(1990年統一) オーストリア(1955年独立)。ベルリンにおいては 東ベルリンと西ベルリン(ベルリンは 東ドイツ領だが そのベルリンの西の一部分のみ 西ドイツ領があって 鉄壁で覆われていた)オーストリアは ドイツから分離した オーストリア領を4分割されたが、10年後の1955年 永世中立国宣言を行い、またドイツとの合邦を永久に禁じられることを条件に、独立を回復する。

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オバマ大統領のスピーチ 歴史的記念となります。
廣島でのスピーチは以下のとおり 原文

Seventy-one years ago, on a bright cloudless morning, death fell from the sky and the world was changed. A flash of light and a wall of fire destroyed a city and demonstrated that mankind possessed the means to destroy itself.

Why do we come to this place, to Hiroshima? We come to ponder a terrible force unleashed in the not so distant past. We come to mourn the dead, including over 100,000 Japanese men, women and children, thousands of Koreans and a dozen Americans held prisoner.

Their souls speak to us. They ask us to look inward, to take stock of who we are and what we might become.

It is not the fact of war that sets Hiroshima apart. Artifacts tell us that violent conflict appeared with the very first man. Our early ancestors, having learned to make blades from flint and spears from wood, used these tools not just for hunting but against their own kind.

On every continent the history of civilization is filled with war, whether driven by scarcity of grain or hunger for gold, compelled by nationalist fervor or religious zeal. Empires have risen and fallen, peoples have been subjugated and liberated, and at each juncture innocents have suffered — a countless toll, their names forgotten by time.

The World War that reached its brutal end in Hiroshima and Nagasaki was fought among the wealthiest and most powerful of nations. Their civilizations had given the world great cities and magnificent art. Their thinkers had advanced ideas of justice and harmony and truth, and yet the war grew out of the same base instinct for domination or conquest that had caused conflicts among the simplest tribes, an old pattern amplified by new capabilities and without new constraints.

In the span of a few years some 60 million people would die: men, women, children — no different than us, shot, beaten, marched, bombed, jailed, starved, gassed to death.

There are many sites around the world that chronicle this war — memorials that tell stories of courage and heroism, graves and empty camps that echo of unspeakable depravity.

Yet in the image of a mushroom cloud that rose into these skies, we are most starkly reminded of humanity’s core contradiction — how the very spark that marks us as a species, our thoughts, our imagination, our language, our tool making, our ability to set ourselves apart from nature and bend it to our will — those very things also give us the capacity for unmatched destruction.

How often does material advancement or social innovation blind us to this truth? How easily do we learn to justify violence in the name of some higher cause?

Every great religion promises a pathway to love and peace and righteousness. And yet no religion has been spared from believers who have claimed their faith has a license to kill.

Nations arise telling a story that binds people together in sacrifice and cooperation, allowing for remarkable feats, but those same stories have so often been used to oppress and dehumanize those who are different. Science allows us to communicate across the seas, fly above the clouds, to cure disease and understand the cosmos. But those same discoveries can be turned into ever more efficient killing machines.

The wars of the modern age teach us this truth. Hiroshima teaches this truth. Technological progress without an equivalent progress in human institutions can doom us. The scientific revolution that led to the splitting of an atom requires a moral revolution as well.

That is why we come to this place. We stand here in the middle of this city and force ourselves to imagine the moment the bomb fell. We force ourselves to feel the dread of children confused by what they see.

We listen to a silent cry. We remember all the innocents killed across the arc of that terrible war, and the wars that came before, and the wars that would follow.

Mere words cannot give voice to such suffering. But we have a shared responsibility to look directly into the eye of history and ask what we must do differently to curb such suffering again.

Some day the voices of the Hibakusha will no longer be with us to bear witness. But the memory of the morning of August 6, 1945 must never fade. That memory allows us to fight complacency. It fuels our moral imagination, it allows us to change.

And since that fateful day we have made choices that give us hope. The United States and Japan forged not only an alliance, but a friendship that has won far more for our people that we can ever claim through war.

The nations of Europe built a union that replaced battlefields with bonds of commerce and democracy. Oppressed peoples and nations won liberation. An international community established institutions and treaties that worked to avoid war and aspired to restrict and roll back and ultimately eliminate the existence of nuclear weapons.

Still, every act of aggression between nations, every act of terror and corruption and cruelty and oppression that we see around the world shows our work is never done. We may not be able to eliminate man’s capacity to do evil, so nations and the alliances that we formed must possess the means to defend ourselves.

Among those nations like my own that hold nuclear stockpiles, we must have the courage to escape the logic of fear and pursue a world without them. We may not realize this goal in my lifetime, but persistent effort can roll back the possibility of catastrophe.

We can chart a course that leads to the destruction of these stockpiles, we can stop the spread to new nations, and secure deadly materials from fanatics. And yet that is not enough, for we see around the world today how even the crudest rifles and barrel bombs can serve up violence on a terrible scale.

We must change our mindset about war itself — to prevent conflicts through diplomacy and strive to end conflicts after they’ve begun; to see our growing interdependence as a cause for peaceful cooperation and not violent competition; to define our nations not by our capacity to destroy but by what we build. And perhaps above all we must reimagine our connection to one another as members of one human race — for this too is what makes our species unique.

We’re not bound by genetic code to repeat the mistakes of the past. We can learn. We can choose. We can tell our children a different story, one that describes a common humanity, one that makes war less likely and cruelty less easily accepted.

We see these stories in the Hibakusha: the woman who forgave a pilot who flew the plane that dropped the atomic bomb because she recognized what she really hated was war itself; the man who sought out families of Americans killed here because he believed their loss was equal to his own.

My own nation’s story began with simple words: “All men are created equal, and endowed by our Creator with certain unalienable rights, including life, liberty and the pursuit of happiness.”

Realizing that ideal has never been easy, even within our own borders, even among our own citizens. But staying true to that story is worth the effort. It is an ideal to be strived for, an ideal that extends across continents and across oceans.

The irreducible worth of every person, the insistence that every life is precious, the radical and necessary notion that we are part of a single human family: that is the story that we all must tell.

That is why we come to Hiroshima, so that we might think of people we love, the first smile from our children in the morning, the gentle touch from a spouse over the kitchen table, the comforting embrace of a parent.

We can think of those things and know that those same precious moments took place here 71 years ago. Those who died, they are like us.

Ordinary people understand this, I think. They do not want more war. They would rather that the wonders of science be focused on improving life and not eliminating it.

When the choices made by nations, when the choices made by leaders reflect this simple wisdom, then the lesson of Hiroshima is done.

The world was forever changed here, but today the children of this city will go through their day in peace. What a precious thing that is. It is worth protecting and then extending to every child.

That is a future we can choose, a future in which Hiroshima and Nagasaki are known not as the dawn of atomic warfare, but as the start of our own moral awakening.

「それほど遠くない過去に起きたことを深く考えるためにここにやって来ました。また死者を悼み、10万人も超える日本の国民の方たち、何千人もの韓国、朝鮮人の方たちがここで命を落としました。その魂が私たちに語りかけています。 もっと内側を見て、私たちが一体何者かを振り返るように、そして今、どのようになろうとしているかを語りかけています。

戦争は広島だけが特別なのではなく、暴力的な紛争が古くから行われている。石ややりなどが使われました。これは単に狩りのためにではなく、自分たち人類を殺すためにこのような武器が使われてきました。どの大意においても、どの歴史においても、あらゆる文明は、金を求め、民族主義から、あるいは宗教的な理由から戦争が起こってきました。

帝国が台頭し、また衰退しました。そして人々が奴隷になり、解放されてきました。それぞれの歴史の転換点において罪のない人々が苦しみました。多くの人たちが犠牲になりました。その犠牲となった人たちの名前は時がたつと忘れられました。世界大戦は広島、長崎で大変残虐的に終わりました。

文明はすばらしいものを創出してきました。しかし同じところから戦争は出てきました。征服をしたい、という思い。非常に単純な部族からも出てきました。つまり古いパターンが新しい能力によってさらに増幅されてきました。そしてそこには制約が働きませんでした。

ほんの数年の間に6千万人の人が亡くなりました。男性、女性、子供たち。私たちとまったく変わるところがない人たちです。撃たれ、殴られ、あるいは行進させられ、飢えさせられ、また拘束され、またガス室に送られて亡くなっていきました。世界中にはこの戦争を記したところたくさんあります。慰霊碑がいろいろな英雄的な行いなども示している。空っぽな収容所だとか、そういったことを物語っています」

「私たちは人類の矛盾というものを非常に強く突きつけられます。私たちの考え、想像し言語、道具をつくり、そして私たちが自然とは違うということを示す能力、そういったことそのものが大きな破壊の力を生み出したのでもあります。

私たちの偉大な宗教は愛や慈しみを説いていますが、それが決して殺す理由になってはいけないのです。国が台頭し、いろいろな犠牲が生まれ、そういったことが人類を抑圧する理由に使われてきました。

科学によって私たちはいろいろなコミュニケーションをし、空を飛び、病気を治し、科学によって宇宙を理解しようとしていますが、このような科学が非常に効率的な殺人の道具となってしまうことがあります。

しかし現代の社会は私たちに真理を教えています。広島はこの真理を伝えています。だからこそ今ここに立っているのです。

私たちはこの広島の真ん中に立ち、私たちは思いをはせます。この原爆が落とされたときに思いをはせています。子供たちの苦しみを思い起こします。子供たちが目にしたこと、声なき叫び声に耳を傾けます。私たちは罪のない人々が殺された、このむごい戦争によって殺されたことを記憶します。これまでの戦争、これからの戦争の犠牲者に思いをはせます。そして歴史を真っ向から見据えなくてはなりません」

「われわれは一体何を違った風にやらなければならないのか。そしてそのような苦しみを再発させないようにするにはどうしたら良いのかということを自問しなければなりません。いつの日か被爆者の声はなくなっていきます。1945年8月6日の苦しみは決して消えるものではありません。記憶によって慢心というものと闘わなければなりません。

それは私たちの道徳的な想像力をかきたてるものとなります。そして私たちに変化を促すものとなります。そして運命の日以来、私たちは希望を与える選択を行ってきました。アメリカ合衆国、そして日本は同盟を結んだだけではなく、友情を育んできました。それは本当に戦争がもたらしたものであります。

欧州では連合をつくりました。商業、民主主義によって結ばれています。国そして国民が開放というものを求めています。そしてさまざまな戦争を避けるための制度、条約が出てきました。そして制約をかけ、後退させ、ひいては核兵器を廃絶させことへ導くものです。

それにも関わらず国家間の攻撃的な行動、テロ、腐敗、残虐性、抑圧、そうした世界中で目にするものは私たちが行うことに終わりがないことを示しています。人類が悪を行うことを廃絶することはできないかもしれません。そして同盟というものは私たち自分自身を守るための道具を持たなければならない。核兵器を持っているわが国のように私たちは勇気を持たなければならない。そしてこういった恐れのロジックから私たちは自由になっていかなければなりません。

私が生きている間にこの目的は達成できないかもしれません。しかし可能性は追い求めていきたいと思います。このような破壊をもたらすような核兵器の保有を減らし、この死の道具が狂信的な人たちに渡らないようにしなくてはなりません。

しかしそれだけは十分でありません。世界には原始的なライフルであっても、原始的な道具であっても、破壊をもたらすことがあります。私たちの心を変えなければなりません。戦争に対する考え方を変える必要があります。紛争を外交手段によって解決するということが必要です。紛争を終わらせる努力をしなければなりません。平和的な協力をしていくことが重要で、暴力的な競争をすべきではありません。私たちは築き上げていかなければなりません。破壊をしてはならないのです」

「同じ人類の一員としてつながりを再び確認する必要があります。このつながりこそが人類を独自のものにしているのです。私たち人類は過去に過ちを犯してきましたが、しかし過去から学ぶことができます。子供たちに対し別の道があるのだということを語ることができます。共通の人類、戦争が起こらない世界、残虐性をたやすく受け入れない世界をつくっていくことができます。

こういった話は被爆者の方たちが語ってくださっています。米国の犠牲も、日本の犠牲も同じ意味を持っています。米国の物語は簡単な言葉で始まります。すべての人類は平等である。そして持って生まれた権利がある。そして幸福を希求する権利です。

しかし、それを現実のものにするのは米国内であっても、米国人であっても決して簡単なことではありません。しかし、あくまでも真実であるということが非常に重要です。そして努力をしなければならない理想であり、そして全大陸、すべての国に必要なものであります。そしてすべての人命が貴重であるということです。

私たちは一つの家族の一部であるという考え方があります。それが私たちが伝えていかなければならない物語です。だからこそ私は広島に来たのです。そして私たちが愛している人たちのことを考え、朝起きてすぐの子供たちの笑顔、また配偶者の食卓をはさんだ優しいふれあい、親からの優しい抱擁、そういったことを考え、そういった素晴らしい瞬間というものが71年前にもここにあったんだということを考えることができます。亡くなった方々は私たちとまったく変わらない人たちでした。一般の方はそういったことを理解できると思います。

もはやこれ以上、戦争を望んではいません。科学をもっと人類を発達させることに使ってほしいと思います。国家のリーダーが選択をして反省するとき、この単純な知恵というものが広島から得られるでしょう。

世界はこの広島によって一変しました。しかし、今日、この広島の子供たちは平和な日々を生きています。なんと貴重なことでしょうか。この生活は守る価値があります。それを、すべての子供たちに広げていく必要があります。この未来こそが私たちが選択する未来です。広島と長崎は未来において、核戦争の地ではなく私たちの道義的な目覚めの地として知られるでしょう」


真田丸 真田山旧陸軍墓地


真田幸村の銅像のある真田山公園。玉造にある。三光神社から小高いみちを歩いていくと 石垣がある。慶長19年(1614年)の大坂の陣(冬の陣)において、豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城の平野口に構築した出城。上町台地にかけて聳える。三光神社 神殿には 真田の甲冑が安置されている。

ところで 三光神社のすぐ横には ☆の形をした墓碑が。「真田山旧陸軍墓地」。この墓石は約5300あるという。何か急に悲しくなった。ただ手を合わせたい気持ちである。
また、基地を偲ばせるように煉瓦の跡が残っている。ここは桜の大木がある。春には日本人としての気持に触れることができるのだろう。

ポーランドのオシフエンチウム(ドイツ名:アウシュビッツ)には ナチスドイツによるホロゴースト おびただしい数の墓地があり戦慄をおぼえた。1934年 ヴェルダンの戦いによる700,000人の死傷者が出たアルザス・ロレーヌ地方にも共同墓地がある。2013年 遺骨が発見され再埋葬された。

2016年 NHKの大河ドラマは真田丸である。甲冑や六文銭など。九度山町に真田庵がある。
「チャンバラ」ごっこでなく 人の血が流されていることを 忘れてはならない。

戦争が風化している。

 

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旧陸軍墓地は明治からの陸軍で戦死した兵士の墓が無数にある。

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シベリア抑留


先日 吉田正の「異国の丘」をきいた。シベリア抑留でのうた。吉田正は、シベリア抑留から帰還した。弟子には 吉永小百合らがいる。

今日 現在86歳の陸軍通信兵に憲兵されたおじいさまからお話をきいた。お元気でいらっしゃる。敗戦国の権利はないに等しいのは我慢ならないと言い放った。8月15日 ポツダム宣言受諾後も 戦争は終わっていなかった。米軍の占領下にあったので 「GHQ司令部・・・」という看板に書き換えられており 日本ではなかった。1952年(昭和27年)4月28日が本当の意味での終戦の日 サンフランシスコ講和条約締結により 主権を取り戻した。

シベリア抑留について、私の歴史観では、60万人が抑留され、10万人以上が亡くなったと思う。お墓がなく 慰霊ができない状態である。京都の舞鶴に 抑留者慰霊碑があるのみ。外国では ウズベキスタン共和国のタシケントに慰霊碑がある。シベリア抑留では ソ連全土におよび 過酷な労働をしいられ亡くなったとされる。また 乱暴されたりして 人権侵害をされてきたのである。ソ連との間には北方領土の問題がある。

歴史をみると、「日露修交条約」により1855年 南千島(択捉・国後)は 日本の領土となった。ウルップ島 以北は 北千島と呼ばれていてロシアの領土であった。樺太は 両国の領土となっていた。その後、1875年(明治5年)5月7日 「樺太・千島交換条約」によって、北千島が日本の領土となった。戦後 1952年、サンフランシスコ講和条約で 日本は、樺太 千島を放棄した。しかし、もともと 北方4島 国後 択捉 (南千島)歯舞 色丹島(北海道 属島)は、日本の固有の領土である。ソ連は 1945年8月11日 宣戦布告し 南千島に侵攻した。そして、これらの島に住んでいた日本人を追い出した。さらに 歯舞 色丹島にも侵攻し 軍事基地をつくるなど 現在、ソ連の実効支配が続いており、日本が抗議している。

サンフランシスコ講和条約にソ連は調印しなかった。当時 国際連合に加盟することに常任理事国であるソ連は拒否していた。国交回復したのは 日ソ共同宣言 1956年10月19日で 鳩山一郎とブルガーニン首相の間で交わされた。この後、日本が国際連合に加盟することになる。

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李香蘭 波乱の人生


山口淑子、日本人の父と母の間に1920年に生まれた。父は満州鉄道で中国語を教えていた。満鉄に就職するには 中国語が話せないといけなかった。

李際春将軍(後に漢奸罪で処刑される)の、義理の娘(乾女兒)となり、「李香蘭(リー・シャンラン)」という中国名を得た。その後、のちに天津市長になった潘毓桂とも義理の娘として縁を結んだ。中国の旧習では、元来縁を深める為にお互いの子供を義子とする習慣があった。これは実際に戸籍を移す法的な養子という関係ではなく、それぞれの姓でお互いの子女に名前を付け合うなどのものである。

1934年(昭和9年)、淑子は「潘淑華」(潘毓桂としての義子名)の名で北京のミッション・スクール(翊教女子中学)に入学し、1937年(昭和12年)に卒業した。

日本語も中国語も堪能であり、また彫が深く、奉天放送局の新満洲歌曲の歌手に抜擢され、日中戦争開戦の翌1938年(昭和13年)には満州国の国策映画会社・満洲映畫協會(満映)から中国人の専属映画女優「李香蘭」(リー・シャンラン)としてデビューした。女優として歌手として、日本でも満洲でも多くの人々から中国人スターと信じられていた。

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日中戦争中には満洲映畫協會の専属女優として日本映画に多く出演し人気を得た。人気俳優の長谷川一夫とも『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』で共演した。1941年(昭和16年)2月11日の紀元節には、日本劇場(日劇)での「歌ふ李香蘭」に出演し、大盛況となった。大勢のファンが大挙して押し寄せ、日劇の周囲を七周り半もの観客が取り巻いたため、消防車が出動・散水し、群衆を移動させる程の騒動であったと伝えられている(日劇七周り半事件)

1943年(昭和18年)6月には、阿片戦争で活躍した中国の英雄・林則徐の活躍を描いた時代劇映画『萬世流芳』は、中国映画史上初の大ヒットとなったのである。また内容は、阿片戦争の相手国であったイギリスを当時の日本に見立てて、中国民衆の抗日意識を鼓舞するものだった。
『萬世流芳』の大ヒットにより、中国民衆から人気を得た李香蘭は、上海から北京の両親のもとへ帰郷し、北京飯店で記者会見を開いた。 当初、この記者会見で彼女は自分が日本人であることを告白しようとしていたが、父の知人であった李記者招待会長に相談したところ、「今この苦しい時に、あなたが日本人であることを告白したら、一般民衆が落胆してしまう。それだけはやめてくれ」と諭され、告白を取りやめた。この記者会見が終わり掛けた時、一人の若い中国人新聞記者が立ち上がり、「李香蘭さん、あなたが『白蘭の歌』や『支那の夜』など一連の日本映画に出演した真意を伺いたいのです。あの映画は中国を理解していないどころか、侮辱してます。それなのに、なぜあのような日本映画に出演したのですか? あなたは中国人でしょう。中国人としての誇りをどこに捨てたのですか」と質問した。これに対し、彼女は、「20歳前後の分別のない自分の過ちでした。今は後悔しています。あの映画に出たことを後悔しています。今後、こういうことは決して致しません。どうか許してください」と答えるや、記者会見会場内からは大きな拍手が沸いたという。

1945年(昭和20年)6月23・24・25日に上海・静安寺路(現・南京西路)の大光明大戯院Grand Theatre(現・大光明電影院)で行われたリサイタルでは、ヒット曲「夜來香」を含む中・日・欧米の歌曲等が披露され、観客の喝采を浴びた。そして人気の勢いは留まる事を知らず、李香蘭は、周璇、白光、姚莉、呉鶯音らと共に、上海灘の「五大歌后」の1人に数えられた)。 それまで、李香蘭は満洲国と日本のスターだったが、映画『萬世流芳』と、その主題歌「賣糖歌」、挿入歌「戒煙歌」、そして「夜來香」「海燕」「恨不相逢未嫁時」「防空歌」等のヒット曲により、中華民國でも人気スターとなった。

李香蘭は映画『支那の夜』(中華民國では『上海之夜』)をはじめ、『白蘭の歌』『熱砂の誓ひ』の中で、「抗日から転向し日本人を慕う中国人女性」を演じていた。また、中国語で「夜來香」「恨不相逢未嫁時」「防空歌」「海燕」等のヒット曲を出したり、愛国映画「萬世流芳」に出演し、「賣糖歌」「戒煙歌」をヒットさせたりしていた関係上、中国人と思われていたため、日本の敗戦後、中華民國政府から売国奴(漢奸)の廉で軍事裁判にかけられた。李香蘭は来週、上海競馬場で銃殺刑に処せられるだろうなどという予測記事が新聞に書かれ、あわや死刑かと思われた。

しかし奉天時代の親友リューバの働きにより、北京の両親の元から日本の戸籍謄本が届けられ、日本国籍であるということが証明され、漢奸罪は適用されず、国外追放となった。無罪の判決を下す際、裁判官は「この裁判の目的は、中国人でありながら中国を裏切った漢奸を裁くことにあるのだから日本国籍を完全に立証したあなたは無罪だ。しかし、一つだけ倫理上、道義上の問題が残っている。それは、中国人の名前で 『支那の夜』 など一連の映画に出演したことだ。法律上、漢奸裁判には関係ないが、遺憾なことだと本法廷は考える」と付言を加え、李香蘭は「若かったとはいえ、考えが愚かだったことを認めます」と頭を下げて謝罪した。

1946年(昭和21年)2月28日、李香蘭と似ても似つかぬように化粧を落とし、もんぺ姿で引揚船に乗船しようとしたが、中華民國側の女性出入国管理官に李香蘭と見破られ、再度収容所に連れ戻されてしまった。それから10日後に誤解は解け、1ヶ月後の3月末に今度こそ出国できることになった。李香蘭は乗船するや否や一旦はトイレに身を潜めたが、船が港を離れてからデッキで遠ざかる上海の摩天楼を眺めていると、船内のラジオ放送から聞こえてきたのは、奇しくも自分の歌う『夜來香』だった。

女優「山口淑子」として
帰国した後、翌年には旧姓(当時の本名)「山口淑子」に戻って銀幕に復帰、日本映画を中心に活躍した。主演作では、池部良と共演した1950年(昭和25年)の『暁の脱走』などが名作として名高い。『わが生涯のかがやける日』では森雅之と、『醜聞』では三船敏郎と共演している。
また、アメリカに渡り、アクターズ・スタジオの講師から演技を学び、シャーリー山口(Shirley Yamaguchi)の名でハリウッド映画に主演したり、ブロードウェイでのミュージカルにも主役で出演した。その頃ニューヨークで彫刻家イサム・ノグチと知り合い、1951年に結婚。鎌倉の北大路魯山人の邸宅敷地内にアトリエと住まいを構えたが、1955年(昭和30年)に離婚する。
1952年(昭和27年)から1958年(昭和33年)に掛けてはイギリス領香港のショウ・ブラザーズ社の映画『金瓶梅』、『神秘美人』、『一夜風流』に主演。中国語圏で「李香蘭」の名を復活させた。また同時に香港の百代唱片公司で10数曲の主演映画の主題歌を吹き込み、映画と共にリリースしヒットさせる。それらは今もスタンダード・ナンバーとして、世界の中国人・華人の間で歌い継がれている。「三年」「梅花」「小時候」「十里洋場」「分離」等々。

1958年(昭和33年)に日本人外交官で、駐ビルマ日本大使館の三等書記官(国連大使の加瀬俊一の秘書官も務めた)の大鷹弘(元駐ミャンマー特命全権大使、2001年(平成13年)4月に73歳で死去)と再婚し、20年にわたる女優業を引退する。引退直前には原節子の呼びかけにより、芸能生活20周年記念映画として『東京の休日』が製作された。それは三船敏郎、池部良、越路吹雪などの東宝オールスターが出演する豪華なものとなった。そしてこの映画が最後の出演映画となった。その後はマスコミに一切姿を見せなかったものの、1969年(昭和44年)に、「山口淑子」の名でフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会者になり、芸能界へのカムバックを果たす。番組ではベトナム戦争中の南ベトナムやカンボジア、中東などの海外取材も行う。朝日放送が製作した「こんにちわ北朝鮮」という番組ではリポーターを務め、北朝鮮を訪問。金日成国家主席と会談している。