【バッハとの出会いとピアノ】
バッハとの出会いは、小学5年生の時。ピアノを小学2年生からはじめました、小学3年生にピアノを購入することになり、母は積み立てを利用しピアノを買ってくれましたが、パートに出ることになった。小学5年生になると、多感な頃となり、家に帰っても一人だった。ピアノ教室に通っていたが、先生に「今週は練習、ほとんどできませんでした。」と言うと、先生がレコード聴こうというのです。そこで耳にする音楽に衝撃を受けました。バッハの「トッカータとフーガニ短調」ヘルムート・ワルヒャのオルガンでした。ヘルムート・ワルヒャは盲目の演奏家、ライプツィヒのトーマス教会で19歳から弾いていて91年まで活躍。素晴らしい演奏でした。先生は、おもむろに楽譜を出してきてこの三段譜の下の部分を「連弾で弾いてみよう」と言われました。ベースの部分は、重厚ですが、意味が当時わかりませんでした。ベースは支えです。
発表会がその年行われる予定でしたが、先生の旦那さんが病気で中止となりました。以来、発表会はほとんど行われませんでした。当時、小学高学年は部活動、中学校では体育系のクラブに所属することが必須となっていました。だんだんピアノを弾く時間が少なくなる中で、レッスンは続けていました。中学2年の時「小フーガト短調」を授業で聴き、心を打たれました。何とかしてこの曲を弾きたい。ピアノ版はなかったか調べました。当時、インターネットはありません。楽器店で全音ピアノピースをみると高橋悠治の編曲版がありそれを即購入し、右手で旋律を弾き感動していました。左手はベースや対位法の中声部など複雑でしたが、なんといっても美しい。先生にもこの事を聞きました。「音楽美学」を将来、勉強するとよいかなと。先生も大学の時、単位を取得したようです。
多感な時期に、この曲を3か月でマスターしました。その後、ショパンのノクターン集とワルツ集、マズルカ集を購入し、練習しました。NHKーFMのエアチェックも念入りにしました。受験勉強とは言いますが、息抜きも必要です。ピアノを弾くことが気分転換になっていました。中学3年の卒業の曲の合唱ピアノを担当しました。高校に入る前に、その高校の先輩が学園祭のバンド演奏でつまごいコンテストに入賞するなど、うまいバンドがあり、高校に入ったらやってみないかと誘われました。学園祭の時、バンド演奏で洋楽、邦楽でキーボード、ピアノ、ベースを担当しました。その頃、エレピ・シンセサイザーが格段に進化した時代でした。1983年、クラビノーヴァとDX7が誕生しました。家には、中古のシンセサイザーが何台か入りました。KORGのPOLYやROLANDのJUNOやYAMAHAのDXなどです。ソフトシンセサイザーは高くて買えないので、打ち込み、リズムマシーンと同期する。アルゴリズムのファンクションをいじり、メロトロンストリングスの音色をつくったり、オーバーハイムのストリングスの音色をDXでシュミレートしたり、向谷実氏の本を読みました。FDもなく、USBフラッシュドライブもない。ハードのROMメモリに蓄え、ボタン切り替えで演奏していました。2段、3段キーボードの時代です。
高校は、クラブ活動が必須で、ESSと天文、心理研究、テーブルテニス部に所属しました。テスト期間中は、クラブがお休みなので ピアノの練習ができます。モーツァルトの協奏曲やショパンのバラードなどでした。高校一年の秋には、進路を決める時期で、科目選択を決め その頃から音楽教育の道へ興味を持ち、大音の冬期講座に行きました。音楽の道に進む同級生とソルフェージュや楽典を一緒に学習しました。毎日音楽コンクールにも足を運びました。審査のあるピアノ演奏の緊張感はすごいと感じました。当時、ペンパルや文通が流行っていました。ESSに所属していたので、NZやUSAの留学生と文通を始めました。それと、音楽のペンフレンドができ、月に何度もやりとりし刺激をもらってました。一年下の人です。その人とは、10年以上、温かい交流が続きました。
レッスンではバッハの2声インヴェンション、3声シンフォニアで指のコントロールに苦しみました。ショパンやベートーヴェンならペダルを使用できるのに、なぜバッハはペダルなしなのか。と疑問を持ちました。先生は「バッハの時代は、チェンバロで弾いていたのでペダルはなかった。ピアノで弾くには、それぞれのコーラス(声部)を、強弱をつけて生き生きと弾きなさい」と。特に3声は、中声部が左手の上声部と右手の下声部を横断的に弾く事が求められ、特に難しいと思いました。ペダルなしの精緻な表現に抵抗がありバッハを好きになれない時期がありました。当時の大学の受験曲は、バッハとベートーヴェンソナタでしたから。
高校3年を迎える前の冬、バスケットボールの授業で左手親指を骨折しました。全治2か月(中節骨、末節骨、軟骨および粉砕骨折)ここまで酷いとは思わなかった。指は外側に変形していた。これが、今の私を決める重要な出来事だった。かなり凹みました。装具をつけるが、それにより、腱が伸び、完璧なコントロールは難しくなっていた。学期末テスト期間中だったので、ピアノは弾きました。受験曲に取り掛かってました。親指が回復するまでは、左手4本でモーツァルトのソナタを弾いたりしてました。骨は接合したが、変形している、痩せた指になかなか筋肉がつかない。ピアノで完璧に弾くのは難しいとあきらめた。そこで、指の負担が少ないテクニカルチューナーに転向するきっかけとなった。高3の大音の夏期講習も行きましたが、ベートーヴェンの初期のソナタは、快活でペダル使用する感じの曲ではなかったので、指の転向が難しかった。
そして、ピアノチューナーへの道にすすむことになった・・・